2013年6月13日/19日 マナクラブのお話 マタイによる福音書1章18-25節

今日の箇所は毎年のページェント(聖誕劇)でおなじみの箇所です。みなさんもよくご存じだと思いますので、あらすじは割愛します。今日はむしろ話題を掘り下げていきたいと思います。つまり、現代のわたしたちの目から見て、少し奇妙に感じることや疑問に思うことについて解説し、そのあと、現代のわたしたちにとってどのような意味を持つかということについて申し上げます。

(1)「婚約」なのに「縁を切る=離婚」

当時のユダヤの法律では婚約が法律婚と同じ意味を持っていたそうです。ユダヤ社会は家制度・一夫一婦制が強く、不倫に対してが非常に厳しい社会でした。この慣習は古代世界では珍しいほどです。その分世間体の縛りも日本以上に強かったと推測されます。ヨセフが表ざたにするのを望まなかった理由はそのあたりにもあります。

夫ヨセフは正しい人であったということは、法律上正しい人という意味です。逆に言うと、法律によって縛られている人だったということです。この法律は旧約聖書に基づいています。だから、法律通りに生きる人は、「神を畏敬している人」とも考えられていました。ここに天使の「恐れるな」という言葉の皮肉があります。神を畏れているつもりで、実は人間を恐れているのではないかという問いかけが、ヨセフに対してあるのです。

 

(2)「聖霊によってみごもる」

キリスト教の教理においては聖霊とは神そのものです。聖霊によるという表現はマリアの妊娠が神の出来事だったと言いたいのです。難しい言葉で「非神話化」と言います。古代人のマタイさんが書く本は「神話的表現」に満ちています。それを現代風にわかりやすく言い換える作業が必要です。ヨセフとマリアの性交渉によらないで、マリアは妊娠した、それは神の起こした出来事だったということです。

古代以来、マリアの妊娠はさまざまに解釈されました。その中でキリスト教に反対する立場の解釈は興味深いものです。いわく「マリアはローマ兵に強姦され、その結果イエスが生まれたのだ」という解釈です。この解釈は「処女降誕」という教理を攻撃していますが、しかし「聖霊降誕」という教理には上手く批判しきれていません。

 

(3)「イエスと名付けなさい」

古代ユダヤでも「名は体を表す」と考えられていました。ではなぜイエスという名前が「自分の民を罪から救うからである」という理由づけにふさわしいのでしょうか。ギリシャ語名イエスは、ヘブライ語名ヨシュアの音訳です。このヨシュアの意味は「主は救う」という意味なのです。ただしこの名前は当時よくつけられた名前です。ありふれた普通の人の名前です。

 

(4)ユダヤ教対キリスト教

今日の箇所はユダヤ教徒とキリスト教徒の論争の種となった箇所です。アウシュビッツ以後、どうしても乗り越えなくてはいけない課題であり、また、現在のパレスチナ問題について考える参考にもなります。

何が問題かといえば、旧約聖書を預言と考えて新約聖書を実現と考える、この考え方です。鍵かっこで引用されているのはイザヤ書という旧約聖書の一部分です。ユダヤ教徒の言い分はこうです。「キリスト教徒は、ユダヤ教徒の経典である旧約聖書を任意に引用して、勝手な解釈を施して、イザヤが意図していないことを述べ立てている、イザヤはイエスのことをメシアと預言したわけではない。」さらに批判は、「ヘブライ語の文法上も『おとめ=処女』とは翻訳できない」と続きます。この言葉は若い女性という意味しかないからです。ユダヤ教の教理からは、神は人になることはありません。イエスという人が神の子=神であるということがどうしても受け入れられないのです。

 

(5)現代社会における意味

ヨセフは同情に値する役回りです。彼が不利益をこうむらなくてはいけない理由は何でしょうか。どのような問題があり、どのような問題解決が提案されているのでしょうか。

今まで述べた事柄には実は一本の筋があります。一つの問題が通奏低音として続いています。それは、「非嫡出子差別」です。わたしたちの中に厳然としてある差別意識です。法律婚以外の結婚関係で生まれた子どもへの差別、日本でも法律的にそれが温存されています。相続について非嫡出子は半分しか受け取れないからです。

イエスは「マリアの子」と呼ばれることがあります。この言い方は、「非嫡出子」を含意するという学説があります。示唆深い解説です。この事柄は飼い葉桶に生まれた方、羊飼いによって最初に発見された方、救い主・神の子のありように関わるからです。

もし神が地上に降りられるなら、どのような恰好なのでしょうか。自由に想像できますし、さまざまな答えがありえます。今日の聖句から導き出される一つの答えは、「非嫡出子」として本人に責任のないところで差別される赤ん坊として、神は地上に現れるということです。ヨセフの損な役回りは、非嫡出子差別を温存する社会への挑戦です。自分の子どもではない男子を長男として育てることは大きなインパクトを周囲に与えたことでしょう。

沖縄では1946年1月以降、明らかに米兵の性暴力による結果の子どもが生まれ始めたと言われます。そのような一人として、ナザレのイエスもいるということです。

 

話し合ってみましょう。