2017/12/13今週の一言

12/13の「聖書のいづみ」は、サムエル記上31921節を学びました。

1518節は、師匠エリからサムエルが預言者として認められるという場面でした。神の人(真正の預言者の古い呼称)が告げたものと同じ内容を、サムエルがエリに伝えたからです。その内容はエリ家の没落でした。それは同時にサムエルの興隆をも意味します。

「サムエルは大きくなった」19節直訳)ということは、単に体が成長したという意味だけではなく、宗教指導者として影響力を大きくしていったという意味も含まれます。このことは二つの側面から言われています。第一は、ヤハウェという神の関与です。第二に、イスラエルの人々の関与です。

「ヤハウェは彼と共におられた」19節)は、「おられた」の部分が強調された、特別な表現です。サムエルは特別な人物です。また、ヤハウェは繰り返しシロの町で啓示をしますが、もはやエリ家ではなくサムエル個人に自分の意思を示します21節)。啓示はヤハウェの言葉においてなされます。「御自身を示された」21節末尾)という表現には、「裸をさらす」という意味合いさえあります。

神と預言者の関係はここまで親密なものなのです。神は預言者に常に伴い、裸の付き合いさえ厭わないのです。そのような人格的交わりが預言者を真に預言者たらしめます。

ただし神・預言者関係だけでは、真正の預言者になるために足りません。もう一つの要件があります。それは、イスラエルの人々による承認です。人々はサムエルの発言をよく記憶し、それが実際に起こるかどうかを吟味します。「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」19節)という証言は、すべて実現したということを表しています。〔ただし「一つたりとも」は、ギリシャ語訳やアラム語訳の異読を採用した読みです。〕

こうして全イスラエルの人々は、「サムエルがヤハウェの預言者として信頼するに足る人であることを認めた」のです20節)。直訳は、「サムエルがヤハウェの預言者にとって信実faithfulであることを知った」です。サムエルの言葉が真実であり、人柄が誠実であったことを、民は人格的に知ったという意味です。

神との人格的関与、民との人格的関与があって初めてサムエルは、ヤハウェの預言者として全イスラエルの上に立てられます。この二つの側面は、現代においても牧師職を成り立たせる要件となりえます。 JK