2017/07/05今週の一言

7月5日の「聖書のいづみ」はサムエル記上1章19-20節を学びました。主の前に魂を注ぎだして祈り、祭司エリに祝福を祈られて、まったく別人の顔になったハンナの、その後の物語です。

ハンナと夫エルカナらは翌朝早く起き、共に礼拝をし、ラマという町にある自宅に帰ります。すると、主はハンナを思い出します。そして彼女は妊娠し、男子を生み、息子の名前をサムエル(「彼の名前は神」または「神は聞かれる」の意)と名づけました。わずか2節の間に、一年ほどの時の経過が圧縮されています。

 ここには祈りの一つの本質が示されています。祈りは熱意を込めて願うことによって神に自分の苦境を思い出してもらい、神の気変りを起こさせることです。およそ命に関わることは神に属します。子どもを生むことができるかどうかは、自分の意思だけによるのではなく、命の創り主の意思に基づくものです。だから出産を望むハンナは神に、実に神にのみ熱心に祈願しなくてはなりません。

 聖書の神は、祈り求める人の熱意にほだされ、人知れず涙を流す苦境に共感し、元々構想していた未来の道を変えることをしばしば行う方です。神は祈りを聞かれる方です。もしそうでなければ、わたしたちには願いを祈る必要がありません。

 母ハンナの強い熱意と、その後に引き続く彼女による命名には関係があります。家父長制が強かった古代パレスチナ社会において、通例子どもの命名は家長である父親または祖父が行っていました。聖書の中でも、母親が命名する事例はいくつか報告されていますが、すべて理解しうる理由を持っています。

 エバ(命の意)は三人の息子全員の名付けを行っています。カインは「わたしは得た」、アベルは「ため息」、セトは「授かる」という意味です。そこには命の主に対する彼女の挑戦、挫折、受容が見受けられます(創世記4章)。レアとラケルの姉妹は夫の愛をめぐって「出産合戦」を繰り広げ、自分の思いを命名に託しています(同30章)。レアは夫に愛されないという苦労を、ラケルは子どもを与えられないという苦労をしています。舅をだまして出産をしたタマルは自分自身の合法的正統性を確信していました(同38章)。サムソンの母は不妊の苦労という点でも、息子をナジル人として奉献しなくてはならない点でも、ハンナと同じ境遇にあります(士師記13章)。一夫多妻制やレビラート婚など庇護主義によって制度化された性差別や、職に就かせず出産のみを期待する性差別に対して葛藤する女性たちが、命名権限をめぐって男性中心社会と格闘しています。

神はそのような人々の祈りに共感をします。JK