2017/07/19今週の一言

7月19日の「聖書のいづみ」はサムエル記上1章24-28節を学びました。

 今回もギリシャ語訳(および『死海写本』の一部である4QSama)と、新共同訳の底本となっている写本を比較してみましょう。ギリシャ語訳が、底本とは別家系の4QSamaと共通するヘブライ語本文を翻訳していることは明らかです。

 24節後半から25節にかけて、ヘブライ語底本とギリシャ語訳を比較します。

【ヘブライ語底本(私訳)】

 そして少年は少年。そして彼らは雄牛を奉献した。そして彼らは少年をエリのところに連れてきた。

【ギリシャ語訳(私訳。波線部分が4QSamaの断片と一致。なお空白分も推測文字数は一致)】

 そして幼児は彼らと共にいた。そして彼らは彼を主の前に連れてきた。そして彼の父は犠牲を奉献した、それは彼が毎年主のためになしているものだが。そして彼は連れてきた、幼児を。そして彼は雄牛を奉献した。そしてハンナ・彼の母は、幼児をエリのところに連れてきた。

 ヘブライ語底本の冒頭、「少年は少年」が意味不明の一文として宙に浮いています。おそらく元来の文の一つ目の「少年」という単語から、二つ目の「少年」まで目が飛んで書き間違えたのでしょう。つまりギリシャ語訳で言えば、「…は彼らと共にいた」から「…そして彼は連れてきた」までが、書き落とされたのです。「書写の過誤」と呼ばれる現象です。その後、写字生たちは「ハンナ・彼の母」も含めて動詞の主語を全部、「彼ら(エルカナ家の者たち)」に調整したと推測されます。

 この結果、ギリシャ語訳・4QSamaには、父エルカナ、母ハンナも個性を持って登場します。息子サムエルは、三種類の人々によって三回連れてこられることになります。最初に家族の者たちによって神殿の前に、次に父親によって祭壇の近くに、最後に母親によって祭司エリのところに、連れてこられます。

 底本の特徴は登場人物を家に押し込めて没個性的に描くことにあります。ギリシャ語訳も、女性は神殿入ることや犠牲祭儀という礼拝ができないという性差別を前提にしています。しかし、後者の方が家父長制を批判する力を持っています。なぜなら、サムエルはエルカナ家ではなく母ハンナに与えられ、彼女が神に貸す命であるとしているからです。

遡って考えてもハンナの祈りが命の主を動かし、彼女がサムエルと名づけ、彼女が最初の礼拝の時期を決めてきたのでした。個人として尊重されたハンナが個人として自由に振舞うことに、神の似姿としての人間の模範を見ます。JK