2018/02/07今週の一言

2/7の聖書のいづみでは、サムエル記上41013節を学びました。

 「聖書本文に意味不明な単語がある」と言うと、驚く人がいるかもしれません。学問的には「本文がこわれている」という現象です。写字生たちの書き間違えから、意味不明の言葉が残されている場合が、特に旧約聖書には多くあります。そのような場合、ユダヤ人たちがどのように安息日礼拝で朗唱・発音してきたかという伝統や、ヘブライ語以外の古代語訳等を参考にして、最古の本文を推測し「復元」します。この学問的作業を「本文批評」と言います。

 13節の「エリは道の傍らに設けた席に座り」とありますが、ヘブライ語本文は「傍らに」と書いてありません。意味不明の二文字があるだけです。発音で言うとYKにあたる二文字です。なぜ「傍らに」と翻訳されているのでしょうか。

実はヘブライ文字のKの形は、Dの形とよく似ています。縦棒の長短の長さが違うだけなのです。もし、これがYKではなくYDであるならば、「手」という意味の単語になりえます。そして、「手」には、「近くにあるもの」という意味があります(日本語の「手元」と似ている)。それは文脈上「傍らに」という意味になりえます。グーテンベルグの印刷技術が普及するずっと前の時代の話です。何世代も書き写していく過程で、写字生の誰かが誤って、縦棒の長さを長く書いてしまったのでしょう。

新共同訳聖書の底本である「レニングラード写本(紀元後1008年)」には、当該の二文字に注が付されています。その注は、「安息日の礼拝で朗唱する際には、YKではなくYDと読むように」と、読者に指示しています。この注は、上述の仮説の蓋然性を高める、大きな根拠です。

もう一つの根拠は、古代諸語による翻訳です。ギリシャ語訳、ラテン語訳、シリア語訳、アラム語訳の旧約聖書においても、「傍らに」という単語が訳語として用いられています。この事実は、翻訳者たちが見ていたヘブライ語本文が、翻訳の時点ではYDと書かれていた可能性を示唆します。いずれの翻訳もレニングラード写本以前に遡りうるので、考慮に値します。

「聖書に書かれていることは全て客観的に絶対に正しい」と考える「無謬説」に、わたしは与しません。聖書の本文の中に、今も確定していない部分があるという事実も、与しない理由の一つです。多様な本文の存在は、多様性の重要さや、人間は過ち多き存在であることを教えています。そこから神の意思を尋ねることの方が、自己絶対化に陥るよりも健全でしょう。 JK