2018/04/25今週の一言

 

4/25の聖書のいづみではサムエル記上6章10-14節を学びました。ヤハウェの箱が、ペリシテからイスラエルに帰還する場面です。

 ペリシテ人たちが同盟を組んでいる五大都市の領主たちは、祭司たち・占い師たちの助言に従います。ヤハウェの箱と、賠償の捧げ物(アシャム)を入れた箱を牛車に載せます。二頭の雌牛を軛につないで、その牛車を引かせます。雌牛は授乳中であり、しかも牛車を引いた経験のないものたちでした。つまりこの牛車はペリシテの町エクロンに戻ってくることが自然です。

 もし不自然にも牛車がベト・シェメシュ(「太陽の家」の意)という国境沿いのイスラエルの町に行くのならば、ペリシテ人に広がる疫病の原因はヤハウェの箱が「ペリシテの地(サデー)」(1節)にあるからです。その場合ヤハウェの箱はそのままイスラエルに返還され、さらにヤハウェ神に賠償の捧げ物が奉献されます。賠償は謝罪の意味を含みます。またペリシテ人たちの習慣によれば、鼠と痔の像は、疫病の原因の根絶と、罹患者がゼロになることへの祈願を意味しています。

 ペリシテの領主五人は、心配そうに牛車の後ろについていきます。牛車はずんずんとまっすぐ大通りを進んで、ベト・シェメシュの人「ヨシュアの畑(サデー)」で止まります(14節)。ここで神意が示されました。

小麦を刈り入れる農作業をしていた人々は大喜びです。仕事を中断して感謝の礼拝を捧げることとしました。ここからはペリシテの流儀ではなく、イスラエルの流儀で礼拝儀式がなされます。ただし律法の定めからは大きく逸れたやり方です。

ベト・シェメシュの人々は、牛車を叩き壊して薪をつくります。そして牛車を引いてきた雌牛を「焼き尽くす捧げ物」(オーラー)としました。立ち上る煙の香りによって天の神の怒りを宥めるという趣旨の捧げ物です。レビ記1章3節によると、牛の焼き尽くす捧げ物は「無傷の雄」であるべきです。この規定には障害者差別と女性差別が含まれています。捧げ物についての制約は、祭司になるための要件と対応しています。すなわち、健常者の男性だけが祭司となりうるのです(レビ記21章17節以下)。

このような自由な礼拝を行ったのは、ヨシュア(ギリシャ語名イエス)という地主の畑で働く男女も子どもも混じった農民たちです。彼ら彼女たちは、神の帰還を日常の労働の只中で祝ったのでした。教会は「神の畑」です。隣人に謝ることや、神の怒りを宥めることは、わたしたちの日常で何をなすことなのでしょうか。最大最後のアシャム・オーラーであるイエス・キリストから学びたいものです。JK