2018/06/13今週の一言

6/13の聖書のいづみでは、サムエル記上7912節を学びました。サムエルがペリシテ軍との戦闘の前に、イスラエルのために祈るという場面です。戦争が身近であり、かつ政教一致していた古代社会の事情を考慮に入れなくてはいけません。つまり、このような箇所を直接に、現代にあてはめて模範とすることは不可能です。たとえば日本が他国と戦争をする羽目になった時に、キリスト教会が日本の戦勝を祈るなどということをすべきではありません。過去の戦争協力の行為を、わたしたちが罪責として悔い改めているからです。

 9節のサムエルが祈る場面は、多くの異読があります。その多様性が、わたしたちに祈りとは何かを教えてくれます。今回はそこに焦点を合わせましょう。

 

【ヘブライ語】(私訳)

 そしてサムエルはヤハウェに向かってイスラエルのために叫んだそしてヤハウェは彼に答えた

【ギリシャ語訳・ラテン語訳】

 そしてサムエルは主に向かってイスラエルのために叫んだ。そして主は彼の(言葉を)聞いた

【シリア語訳】

そしてサムエルは主の面前でイスラエルの息子たちのために祈った。そして主は彼に答えた。

 

サムエルはヤハウェ(新共同訳「主」)に向かって祈ったのか、それとも、ヤハウェの面前で祈ったのか、二つの立場があります。同様に、現在生きているイスラエルの民のために祈ったのか、将来にわたるイスラエルの子孫のために祈ったのか。大声で叫んだのか、静かに祈ったのか。それぞれ立場が分かれます。さらに、神は祈りを聞いただけに過ぎないのか、それとも、祈りに答えたのかについても立場が分かれています。わたしたちはどのような神に祈っているのでしょうか。

実はギリシャ語訳は、上記の直前の文でもサムエル単独の祭儀行為ととらずに、サムエルが「すべての民と共に」犠牲祭儀を行ったと記しています。ここにも代表者単独の礼拝か、会衆全体の礼拝かという分岐があります。

礼拝の中での祈りとは何でしょうか。上記のすべての可能性に開かれたものであるはずです。 JK