2019/02/13今週の一言

2月13日の聖書のいづみは、フィリピの信徒への手紙1章7-8節を学びました。以下は、ギリシャ語原文の語順を意識した私訳です。

 

7 このように、あなたたちすべてについてこのことを考えることは私にとって正しい。なぜなら私はあなたたちを心の中に抱いているからだ、私の鎖(複数)においても、また、福音の弁明と確証においても。あなたたちすべては、恵みの、私の共同参与者であり続けているのだから。

8 実際、神が私の証人(である)、いかにわたしがキリスト・イエスの感情(複数)において、あなたたちすべてを想っているかの。

 

7節の「私はあなたたちを心の中に抱いている」は、文法上主体と客体を交換することが可能です。つまり「あなたたちは私を心の中に抱いている」とも翻訳できます。どちらも真実です。パウロはフィリピ教会と関係が良好なので、一人ひとりを心の中に持つことができました。しかし、全員を心の中に入れるということは無理です。新規の教会員もいたでしょうから。むしろ、フィリピの教会員がローマに軟禁されているパウロのことを心の中に持つことの方が、実際にありそうな事態です。一が多を祈り、多が一を祈る。教会の交わりとはそういうものです。

「恵みの、私の共同参与者」(7節)も曖昧な表現です。「パウロが贈与するものについて共に与る者」なのか、それとも「神からの恵みをパウロと共に与る者」なのか、どちらともとれます。前者を採ると、パウロの贈与するものが何か不明なので、ほとんどは後者を採ります。頭の体操としては興味深いものですが。

「弁明」(7節)は裁判での口頭弁論のような意味合い、法廷用語です。また、「証人」(8節)も目撃証言をなす人という意味の法廷用語です。背景には、ローマ皇帝に上告し、ローマ市に移送され、長期拘留され、裁判の真っ最中であるパウロの現実があります。「私の鎖」(7節)は、パウロの軟禁状態を指す比喩です。

パウロにとって福音宣教は、裁判の中で「弁明」としてなされます。その際に、パウロの傍らに立っているのは、「証人」としての神です。福音宣教のために逮捕されたパウロは、そのことを恨みに思って神に不平を述べたりはしません。迫害はむしろパウロに「神が私の証人」との確信を持たせ、それを強めているようです。 

「キリスト・イエスの感情」(8節)を本多哲郎は「キリスト・イエスのはらわた」と直訳しています。「腹を立てる」「肝が据わった」「腑に落ちる」などの日本語表現を連想させます。JK