2019/03/13今週の一言

3月13日の聖書のいづみは、フィリピの信徒への手紙1章18-19節を学びました。以下は、ギリシャ語原文の語順を意識した直訳調の私訳です。

 

18 だから何か。ただ、見栄にせよ、真実にせよ、すべての方法でキリストが宣べ伝えられているのだから、この点においても私は喜んでいる。しかしまた、私は喜ぶだろう。

19 というのも、私は以下のことを知ったからだ。すなわち、このことがわたしにとって救いへと変わるであろうということを、あなたたちの祈りとイエス・キリストの霊の助けとを通して。

 

キリストを布教したために逮捕され、皇帝に対しても裁判の場で福音のすばらしさを弁明しようとして、パウロは上告をしました。彼はローマ市民権を持っていたので、ローマ市で正当に裁判を受ける権利を持っていました。こうして、ローマ市内での軟禁勾留が始まりました。フィリピの信徒への手紙は、獄中ローマからフィリピ市にある教会に向けて書かれた手紙と解します(異説もある)。

フィリピの手紙は「喜びの手紙」と称されます。行動の自由が奪われている老使徒が、実に意外なことに、「私は喜んでいる」「私は喜ぶだろう」と連呼しているからです。パウロにとって喜びは、苦難と逆説的に一体化しています。

18節「この点においても私は喜んでいる(現在形)」のうちの「この点」は、おそらくパウロの軟禁が福音の前進に役立ったということを指しています(12節)。パウロの今いるローマ市内でも、またパウロを奪われた諸教会においても、動機はともかくとして盛んにキリストが宣べ伝えられているならば、結構なことです。

18節末尾の「しかしまた、私は喜ぶだろう(未来形)」の対象、つまりパウロがこれから何に喜ぶのかは、19節の内容を指すでしょう。そこには現在の苦難が将来の救いに変わるという希望が語られています。キリストの霊の助けと、遠く離れたフィリピの信徒たちの祈りを通して、苦しみは逆説的に救いになります。

なぜか。なぜなら、キリストの霊(聖霊、霊である神)が信者に宿っているからです。祈りとは、キリストの霊を宿す人々のネットワーク(網の目状の連帯)です。人生の難局にあって、葛藤し苦しむ時に私たちは自分の品性が形づくられていきます。キリストの霊が共に苦しむからです。また、誰かに祈られていることを感じるからです。人格の品位の部分を、キリスト教用語では「霊性spirituality」と呼びます。霊性は互いの共感・共苦によって錬成されていきます。苦難そのものを美化することは許されませんが、霊性の形成が救いであることは否定できません。JK