2019/09/18今週の一言

1949年9月にいづみ幼稚園の前身である「幼児クラス」が、下馬のEBドージャー宣教師宅で開かれました。そこから数えていづみ幼稚園は創立70周年。そのことを記念して、西南学院大学神学部で35年間教鞭を取られた青野太潮さんの講演会を9/15に開催いたしました。9/18の聖書のいづみでは、その講演内容について振り返って話し合いました。

講演題の「信仰告白の言語」とは、「ケーリュグマ(初代教会の宣教内容)」とほぼ同じ意味で用いられています。三位一体の神や処女マリアによるイエスの誕生などの「キリスト教の教理」とも、あるいは「信条」とも言い換えられます。これらは、歴史的に徐々にかたちづくられていきました。それはつまり、聖書本文の中には、ある特定の教理が定着するよりも前に書かれた部分があるということを意味します。

近代の聖書学は、聖書各文書の書かれた年代がいつなのかについて、非常に敏感です。青野講演は、ほぼ定説となっている推定年代を前提としています。すなわちパウロの手紙が40-50年代に書かれたとし(新約聖書各巻の中で最も古い)、マルコ福音書を70年ごろ、ルカ・マタイ・ヨハネ福音書を90年以降に位置づけます。

パウロもマルコも「処女降誕」について、否定的ないしは無視・軽視しています。そこから処女降誕という教理が少なくとも70年代までは定着していなかったということが推測されます。しかも90年代になって初めてルカ・マタイが処女降誕を描く背景には、80年代に喧伝されたローマ皇帝神格化(皇帝アウグストゥスの父親がアポロン神であるという政治的な神話)への抵抗が要因にあるというのです。そうであればルカの時点であっても、処女マリアによる誕生というよりも、むしろ、聖霊による誕生ということの方に著者ルカの力点があると言えます。

いったん処女降誕が信条の一部をなし(「おとめマリアより生まれ・・・」)、「信仰告白の言葉」として格上げされると、時系列的に後から入ってきた認識が頭の中に埋め込まれます。そして聖書を解釈するときに、一種の「先入観」として作用します。それはパウロの手紙やマルコ福音書の真意を探る際にマイナス要素となりえます。著者本人が思っていないことを、読者が予め読み込んでしまうという事態です。

「聖書に何が書いてあるのか、あなたはそれをどう読むのか」。30年前に神学生だった時から、青野教授に鋭く問い続けられていることです。ここで、「聖書に何が書いてあるのか」という意味は、著者が書いた時に何を意図して誰に対して書いているのかということも含みます。自然薯を掘り出すように、古代人である著者の言いたいことを傷つけずに掘り出す学問的努力が重要です。

「聖書をどう読むのか」もまた重要です。どんなに素直な読み方でさえ、現在の自分自身の解釈でしかないからです。また相矛盾する聖句に関しては、どうしてもどちらを重視するか選ばなくてはならないからです。たとえば、ガラテヤ4章4節に反してマリアの処女性を強調することは、何を意図する解釈なのでしょうか。それにより神の愛が伝わりにくくなるなら無駄なことです。知性を犠牲にせず、同時に机上のお遊びにならない仕方で、聖書と人生に向き合いたいと思います。 JK