2019/10/23今週の一言

10/23の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章3-4節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。

3 というのも私たちこそが割礼だからだ。その私たちは神の霊を礼拝する者たち、キリスト・イエスを誇る者たち、肉に信頼しない者たち(なのだが)。

4 もっとも私自身は肉にも信頼を持ち続けている。もし誰か他の人たちが肉に信頼していると思っているのならば、私はもっと(そうだ)。

この箇所は、パウロの他の手紙における主張を考えると、理解しづらい内容です。パウロはキリスト教徒になるために割礼は不要であるという持論を持っています。割礼とはユダヤ教徒になるための通過儀礼です。非ユダヤ人への伝道に携わったパウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6章15節)と言い切っています。ユダヤ主義キリスト教徒は、パウロにとって終生の論敵なのです。

「私たちこそが割礼だ」(3節)といって「割礼」という単語を肯定的なたとえに用いるパウロの言葉使いに疑念が湧きます。ユダヤ人の証拠である割礼を誇ることは、「肉に信頼する行為」なのですから。

さらに驚くべきことに、パウロは自らの割礼を今も誇り続けていると言いのけるのです(4節)。他のユダヤ主義キリスト教徒以上に肉に信頼し続けている、と。それはキリストを誇ると同時に、ユダヤ人である自分の割礼をも誇る行為です。

パウロの矛盾を取り繕うために代々の翻訳は腐心しています。たとえば新共同訳の条件文付きの二重否定、「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」。しかし原文は直截に、自分は肉に信頼し続けていると言っています。わたしたちはこの矛盾をパウロの個性として受け取った方が良いでしょう。

パウロは、強烈な民族主義的誇りを持つ一方で、同時に、あらゆる民族の救いを信じきっています。選民イスラエルの特権的救いを確信する一方で、新しいイスラエルである教会においてユダヤ人もギリシャ人もないと断言します。ローマの信徒への手紙9-11章において、パウロがこの両義的な主張を展開しているとおりです。パウロの回心とは何だったのでしょうか。

キリストを信じることは新しい生き方に飛び込むことです。しかしそれは昨日までの人生が無になることではありません。大切にしているものを死ぬまで大切にしながらも、霊であるキリストを真に礼拝し続けることが可能です。 JK