2019/12/18今週の一言

クリスマスおめでとうございます。

日本一ヒマな教会にとっても、もっとも忙しい季節です。

①極力礼拝のみに集中する

②会議やイベントをなるべくしない

③前項についてはパーティー開催を例外とする

上記の「教会をヒマにするための三大原則」をわたしたちは掲げています。クリスマス(降誕祭)とイースター(復活祭)とバプテスマ(洗礼)については、③の例外条項が適用されるので、どうしても盛り上がってしまう傾向にあります。「パリピ人」なので、この点での繁忙はしょうがないですね。

パーティーが開けるというだけでクリスマスはめでたいものです。

こんなことを書くと、「それでは『世間のクリスマス』と同じじゃないか。『本当のクリスマス』は教会の専売特許なのだから、神の子が生まれた/救い主が天から贈られたという真の意味を理解しないなされる乱痴気騒ぎとは一線を画すべきだ」という叱責を受けそうです。このような意見は、キリスト者同士の間では説得力を持っているかもしれませんが、しかし、一読して明らかなように「世間のクリスマス」を楽しむ人々を随分と見下した言い方です。

では逆に問いましょう。教会やキリスト者は、クリスマスの本当の意味を理解しているのでしょうか。同じような問いは、「主の晩餐」というイエス開催のパーティーを起源とする儀式においてもあてはまります。信徒は、キリスト信仰や「主の晩餐」の本当の意味を理解してパンとぶどう酒を取っているのでしょうか。

わたしの理解するキリスト信仰(福音)は次のようなものです。

わたしが神の敵であるときから神はわたしを赦し、神について理解していないときから愛してくださる。神はどん底にいるときにこそ共におられ、必ず立ち上がらせてくださる。このことをより受け容れやすくするために神はひとり子イエスを世界に送ってくれた。このイエスの霊がわたしに宿っているので、自分を神にすることなく謙虚にまっすぐ人生を歩くことができる。

どんな人とも神は共におられます。それはクリスマスのメッセージでもあります(もちろん「神が共にいる」と受け取るかどうかは、その人の考えを尊重しなくてはならないでしょうけれども)。上記の信仰理解の帰結として、上下や分け隔てを作らず全ての人と食事を共にすることが勧められます。儀式的食事であれ、世俗的パーティーであれ、それはあてはまります。クリスマスを共に祝いましょう。JK