牢からの脱出 使徒言行録5章17-26節 2021年1月24日礼拝説教

17 さて立って、大祭司と彼と共なる全ての者たちは――彼らはその地のサドカイ派の分派なのだが――嫉妬に満たされた。 18 そして彼らは使徒たちの上に手を伸ばした。そして彼らは彼らを公の牢の中に置いた。 19 さて主の天使は夜を通して獄の扉を開けた。そこで彼らを導き出しながら彼は言った。 20 「あなたたちは行け。そして立って、あなたたちは神殿において人々にこの全ての命の話を語れ」。 

 前回の「まとめの句」の続きです。教会が「診療所」となり人々を癒し、癒された人が癒すという活動を続けていました。元サドカイ派だった教会員は神殿のソロモンの柱廊を堂々と占拠し続けました。サドカイ派からの転向者は食い止まりましたが、教会の周りを囲む民から相互治療と自治に参与していく人々は増え続けました。

 この状況に嫉妬を覚えた人々がいました。サドカイ派の中枢を占める一団です。「大祭司と彼と共なる全ての者たち」と呼ばれています(17節)。この人たちは、教会を選んで分派してしまったサドカイ派の中の「ほかの者」(13節)のことです。そこで「その地のサドカイ派の分派」(17節)と、いささかくどく言われています。サドカイ派にとって最重要な施設はエルサレム神殿です。エルサレム在住の大祭司や神殿長はサドカイ派の中の指導者です。彼らは仲間を引き締めて新たな転向者を出さないことには成功しました。しかし、ことはサドカイ派だけの問題ではありません。サドカイ派以外の人々が教会に加わっていくならば、サドカイ派の「教勢回復」は望めません。

 サドカイ派は、「言論には言論」「伝道には伝道」と、公正な競合をしようとは思いません。政教一致した古代社会のこと、自らの政治権力・警察権力を使って使徒たちを「公の牢」に拘束して、教会の活動を止めようと考えたのです(18節)。そうすればソロモンの柱廊は奪い返すことができる、そうすれば治療行為は止む、そうすればキリスト信徒の数が増えないはずであると考えたのでしょう。

 しかしここで奇跡が起こります。使徒たちは一夜にして全員公の牢から脱出できたというのです。「主の天使」(19節)が扉を開けたということは、どのような事態なのでしょうか。奇跡的な牢獄からの脱出は使徒言行録全体で散見されます(4・5・12・16章)。今回の箇所は12章と最も似ています。この二つの物語の背景には、「公の牢」に勤める「公務員」たちの中に初代教会に好意的な「民(ラオス)」がいたこと、またはすでに信徒となった人々がいたことがあります。16章の物語は牢に勤める人もキリスト者になりうることを示しています。16章がルカの属するフィリピ教会での出来事であることは重要です。使徒の脱獄を助けた役人を教会では「主の天使」と呼んでいたのでしょう。杉原千畝の「命のビザ」のような物語です。

 「主の天使」は使徒たちに命令します。「神殿でこの全ての命の話を語れ」。ここで「言葉(ロゴス)」ではなく「話(レーマ)」という単語が用いられています。書かれた言葉よりももっと生き生きした話される言葉という意味合いです。それは「自分の体験した復活の証言を生き生きと語ること」です。ソロモンの柱廊での伝道は元サドカイ派の信徒たちが自発的に始めていた行動でした。主の天使はそこに使徒たち全員参与せよと命じます。「ペトロとヨハネの偵察程度の参与ではなく(3章)、十二人全員で行け。全員投獄されたけれども奇跡的な脱出を経験し、死からよみがえらされたという証言をせよ、それはイエス・キリストの復活の証言と響き合う福音となる」。

21 さて聞いて彼らは黎明のもと神殿の中へと入った。そして彼らは教え続けた。さて大祭司と彼と共なる者たちは近づいて、彼らは最高法院とイスラエルの子らの全ての長老団を招集した。そして彼らは彼らを連れてくるために牢獄の中へと(人を)送った。 22 さて近づいて、下役たちは彼らを獄の中に見出さなかった。さて戻って彼らは報告した。 23 曰く、「わたしたちは公の牢が全ての安全性において閉ざされているのを見出した、また牢番は扉(複数)に接して立ち続け(てもいた)。さて開けると、内部に私たちは誰も見出さなかった。」 24 さて彼らがこれらの言葉を聞いた時に、神殿長と祭司長たちとは彼らについて混乱し続けた。「これは一体何が起こったのか」。 

 ルカはキリストの復活物語と単語を重ねています。「黎明のもと」(21節)は、女性たちがイエスの墓に向かった「明け方早く」と同じ言葉です(ルカ24章1節)。この出来事はキリストの復活と類似しています。そしてとうとう使徒たちは、十字架前の一週間神殿で教え続けたイエスと同じ行動をするようになります(ルカ21章37-38節)。信徒たちの伝道に引き上げられて、さらに教会の周囲を取り囲む好意的な「民」に押し立てられて、使徒たちがキリストに倣うようになったわけです。

 牢獄からの脱出を知らないサドカイ派の権力者たち(4章5-6節の面々)は「最高法院」を招集します(21節)。最高法院は七十一人からなり、三分の一議席がサドカイ派、三分の一議席がファリサイ派、三分の一議席が地方出身者等の長老(富裕層)に分配されていたと言われます。議長は常にサドカイ派の大祭司ですが、サドカイ派以外の議員も多くいました。34節には「ファリサイ派に属するガマリエル」が登場しますし、ヨハネ福音書に登場するニコデモもファリサイ派の最高法院議員です(ヨハネ3章1節)。アリマタヤ出身のヨセフは地方出身の議員だったのでしょう(ルカ23章50-51節)。イエスの処刑から数か月しか経っていない最高法院議会に、教会に好意的な非サドカイ派の議員はまだ在籍していたと考えられます。

使徒たちの脱出を知らない議長は、間抜けな指示を下役たちに出します。「公の牢にいるナザレ派の連中の裁判を行うために連れてこい」と(21節)。最高法院は国会と内閣府と最高裁判所を兼ねたような組織です。その長はサドカイ派の大祭司です。大祭司の指示に従う「下役たち」(22節)も、そして「牢番」(23節)も教会の支援者たちかもしれません。彼らは手ぶらで戻って来て大祭司に答えます。「厳重なセキュリティのもとにあることを確認しましたが、彼らは牢にいないことが判明しました」(23節)。この報告に嘘は入っていません。命令違反をしているわけでもありません。確かに公の牢自体は破壊もされずにその機能を果たしているし、そこで働く人たちも怠けてはいません。しかし使徒たちを見出すことはできないのです。なぜなら「主の天使」が彼らを逃がしたからです。主の天使が誰であるかを告げる義務はありません。「連れてこい」という指示に対して、「いなかったのでできませんでした」が回答です。

 使徒たちがいないという事実はサドカイ派の指導者たちを混乱させました。被告人がいない裁判はできません。彼らは今回嫉妬に基づいて、明確な理由無しに使徒たちを逮捕拘留しています(17節)。ソロモンの柱廊にいた人々が使徒たちではないからです(12節)。イエスの裁判のように最高法院という法廷で言質を取るしかなかったのですが、使徒たちがいないのでは話になりません。召集した大祭司の面子は丸つぶれ、サドカイ派の威信低下は必至です。この失態が引き続く裁判の成り行きと判決に影響を与えていきます。

「これは一体何が起こったのか」(24節)。彼らの狼狽が続きます。大祭司たちは何が起こったのかを知りませんが、しかし何が起こったのかを知っている人がいました。下役たち、牢番たち、実際にこの脱出劇に携わった人たちは知っています。また好意的な議員も薄々感づいています。神が「主の天使」たちを動かしたのです。

25 さて近づいて、とある人が彼らに報告した。「見よ、あなたたちが牢獄の中に置いた男性たちが、神殿の中にいる、立ちながらまた民に教えながら。」 26 そこで出て行って、下役たちと共に神殿長は彼らを連れてきた、強制力を伴わずに。というのも彼らは民を恐れ続けていたからである、彼らが石打ちされないように。

 サドカイ派の議員たちが牢番たちに疑いを持ち始めつつある時、それを遮って実に良いタイミングで「とある人」が報告します。「見よ、あなたたちが牢獄の中に置いた男性たちが、神殿の中にいる、立ちながらまた民に教えながら」(25節)。あまりにも上手すぎるタイミングです。この「とある人」も「主の天使」の一員、教会に好意的な民(ラオス)の一人でしょう。そして神殿長は使徒たちを逮捕するために神殿のソロモンの柱廊に向かいます。神殿長は大祭司に次ぐ地位の人物です。別に自らが使徒の逮捕に行かなくても良さそうなものです。しかし、彼が使徒たちの教えている現場を知ることはこの後の裁判にとっては重要です。前回の裁判で「イエスの名前に基づいて教えること」を一応禁じてはいたからです(4章18節)。伝聞に基づく「嫉妬」だけではなく、自分の目で見るために神殿長は使徒たちの姿を見に出かけます。元サドカイ派の転向者信徒だけではなく、ナザレ派の指導者である使徒たち自身もソロモンの柱廊でイエスの名前に基づく宣教をしているのかを確認しようというのです。

 確かにそこに逮捕されていたはずの使徒たちがいました。彼らは「主の天使」の命令に従って、イエスの名前に基づいて、復活者キリストを宣べ伝え、自分たちの牢獄からの解放を証していました。神殿長は使徒たちがイエスの名前に基づいて教えていることを確認しました。これで有罪判決を出せます。ではすぐに逮捕できるかと言えばそうでもない。使徒たちの周りには民(ラオス)が大勢いました。サドカイ派の人も元サドカイ派の信徒もいません。使徒たちと、教会に好意的なユダヤ人だけがいました。神殿長はひるみます。圧倒的少数者となり取り囲まれているからです。強制的に連行しようとすると暴動が起こります。そうなればローマ兵が鎮圧に出動し、その後最高法院が何を言われるか分かりません。最悪の場合取り潰されるかもしれません。神殿長は使徒たちに任意での同行を依頼し、下役たちは使徒たちに仕え、彼らを丁重に扱いながら最高法院に連れて行きました。これはイエスの裁判と異なります。使徒たちは決して孤立していません。様々な場面に「主の天使」がいて守っているのです。

 今日の小さな生き方の提案は「主の天使」の助けを信じるということです。キリストは「十二軍団以上の天使」の助けをあえて断って十字架への道を進まれました(マタイ26章53節)。このような方はイエス・キリストただ一人です。孤独な十字架への道は、復活され聖霊を信徒たちに配るためのものでした。また信徒たちをその時々に守るためのものでした。だから、わたしたちは聖霊の導きを信じて、キリストを証すべき場面でも落ち着いて語ることができます。キリスト者としてふさわしい言動(愛・義)をする時に不利な状況に陥ることがありえます。善いことをしたがゆえに悪い結果を被ることがあります。神の右に座している復活のキリストは、時々に「主の天使」を遣わし、わたしたちを助けます。主の天使とは教友かもしれませんし、教会に好意的な人かもしれませんし、さらには全く無関係な人かもしれません。振り返って考えると、あれが神の助けだったと思えることが一人ひとりにあるはずです。それが主の天使です。