2020/02/12今週の一言

2/12の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章18節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。

18 というのも多くの者たちが歩んでいるからだ。その人たちをしばしば私はあなたたちに言い続けてきた。今やしかし泣きながらも私は言っている。キリストの十字架の敵どもを。

「多くの者たち」「その人たち(原文は関係代名詞)」「キリストの十字架の敵ども」は、みな同じ人々を指します。その人たちを/敵どもを言うという表現は、少々言葉足らずで、「その人たちについて言及している」という意味に理解します。ここでパウロは同じ動詞「言う」(レゴー)を、時制を切り替えて二回用いています。「言い続けてきた」は、過去から過去への継続した動作、そして「言っている」は現在進行の動作です。今までもずっと言い続けてきたことを、今もまた言い募っている様子が現れています。

非常に強い警戒心をもって、「キリストの十字架の敵ども」についてパウロはかつても今も警告をし続けています。では、「キリストの十字架の敵ども」とはどのような人たちなのでしょうか。

この人たちは、3章2節「犬ども」「よこしまな働き手たち」「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」(いずれも新共同訳による)と同じ人々であると解するのが文脈上素直です。ここから推測されるのは、「ユダヤ教徒の証拠である割礼が施されていなければ、キリスト者になれない」と主張する人々との論争です。いわゆる「ユダヤ主義キリスト者たち」がキリストの十字架の敵どもと名指しで批判されているのでしょう。そこにある問題は、ユダヤ民族主義・選民思想や、人間の行いの一種である儀式によって救われるという考え方(行為義認)です。選民思想や行為義認が、キリストの十字架と鋭く対立しています。

このパウロの厳しい批判を、現在のキリスト教会も自分たちに対する警告として受け止める必要があります。たとえば、日本人のみを教会に招いたり優遇したりすることは厳に慎むべきでしょう。また、一旦キリスト者になった自分を「先に選ばれ救われた者」とみなすことは、不健全な優越感を保持することにもなりえます。バプテスマという儀式を経験したことが、その優越感の根拠であれば「行為義認」との謗りを免れません。

キリストの十字架という救いは、すべての人々を包み込む愛の出来事であり、わたしたちの行いに先立って無条件になされた恵みです。JK