2020/03/18今週の一言

 とある月刊誌に連載予定の拙稿(未定稿)を載せます。「ヘブル語のすすめ(仮題)」です。一年間の連載は、その直後ぐらいに発行予定の『聖書ヘブル語文法』(仮題)の宣伝文書でもあります。

 「原典で聖書を読みたい」と思って神学校に入る人は、相当数存在するでしょう。そしてそれに勝るとも劣らない数で、「結局ヘブル語って何だったの」という徒労感を持ちながら教会に赴任する人も存在します。かく言うわたしもその一人でした。30年前の西南学院大学神学部で使われていたヘブル語教科書は英語で書かれていました。ヘブル語の辞書も英語仕立てです。そもそも英語が苦手なわたしは教科書や辞書を読むために英語の辞書を引くという始末。一体何の勉強をしているのか分からぬまま、教科書も半分しか終わらず、牧会現場へ赴くこととなりました。

 このままでは終われないと思い牧師をしながら6年間独学でヘブル語の教科書を何度も復習しました。それでもなお「原典を読めた」という手応えを感じず、とうとう一年発起して聖書語学(ギリシャ語・ヘブル語・アラム語・ウガリト語)を学ぶために米国留学をしたのでした。英語の苦手な、このわたしが。

幸いなことに米国でヘブル語を教えることに長けた師匠Nancy deClaissé-Walford教授に出会いました。わたしはその教授法に舌を巻きました。彼女の作った教科書は文法知識を七割に圧縮していました。とにかく教科書を全部終わらせることを最優先にし、全体のヘブル語が何であるのかを学生たちに把握させました。その上でヘブル語原典を解読するための、極めて有効なコツと道具を伝授したのでした。省エネ、最短コースによる暗号解読、正に目からウロコでした。

師匠の口癖は「文法的に可能ならば、どんどん個性的な私訳を試みよ」というものでした。ここに聖書を原典で読む魅力があります。日本聖書協会による諸訳(文語訳・口語訳・新共同訳・協会共同訳)や、新改訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、関根正雄訳、岩波訳などを読み比べてみると、同じ聖句であっても随分異なる訳文の場合があります。すべて翻訳interpretationは解釈interpretationです。異なる言語の間では、似た意味を持つ言葉でも必ず意味範囲にズレがあります。ヘブル語で複数の意味を一単語で表していても、日本語に翻訳する際に一つに絞らなくてはいけない場合もあります。翻訳者は、原意を解釈して少しズレた一つの訳語をやむを得ず選んでいるのです。(つづく) JK