2020/09/02今週の一言

一節も省くことなく連続した聖句を説教に取り上げる方式を「講解説教」と呼びます。その反対に、毎週説教者が聖句を自由に選ぶ方式を「主題説教」と呼びます。他にも教会暦に従う聖句選定の方式もあります。講解説教や主題説教を基本にしながらも、イースターやクリスマスには教会暦に準じて選んでいる説教者も多いと思います。泉教会も、講解説教を基本にしながら年中行事には教会暦を準用しているという方式です。日本バプテスト連盟には、『聖書教育』の聖句に従うという独特の方式を採る教会も相当数あるのではないかと推測します。

それぞれの方式は一長一短です。唯一絶対の正解などというものがない中、ではなぜ泉教会が講解説教という方式を選び取っているのかが説明されなくてはならないでしょう。

講解説教の利点は、説教者の恣意的な誘導を避けられるというところにあります。聖書自身の流れに説教者が導かれるという構造です。その一方で講解説教には、時事問題などを盛り込むことは難しいという制約があります。また一つの書に1-2年かかってしまうので、色んな書を読む機会が阻まれてしまいます。

逆に主題説教の利点は、時事問題などをふんだんに盛り込んで語ることができるというところにあります。説教者は自分の言いたいことと関連があり、その根拠になりそうな聖句を全ての書から探して選べます。このことは説教者に対する大きな誘惑です。聖句の選びも含めて(案外まんべんなく選べないものです)、聖書の使信よりも自分の主張の方が前に出てしまうかもしれないのです。特定個人に対する、いわゆる「当てつけ説教」と呼ばれる行為は厳に慎むべきでしょう。

もちろん生の「聖書の使信」などというものは存在しません。翻訳という他人の解釈を通してしか聖書を読めないわけですし、仮に原典から分析していると言っても、自分というフィルターを通してしか読み解くことはできません。あらゆる説教者が「自分の主張」に否応なし相当程度偏ってしまうものです。

だからこそ正に、説教者は意識して聖書を自分よりも前に出そうと努めなくてはいけないと思います。または聴衆の心に説教者ではなく聖句が残るように努力しなくてはいけないでしょう。その点で講解説教の方が主題説教よりも優れています。

確かに講解説教においては、同じような話が続くことへの飽きが聴衆に起こりえます。「この食べ物は食べ飽きた」と。また確かに「この聖句から何の良きもの(福音)が出てこようか」という嘆きが説教者から生まれえます。会衆にも説教者にも忍耐が必要となりますが、忍耐は練達を生むことを望みたいものです。JK