2020/12/09今週の一言

イザヤ書は新約聖書に引用されることが多い預言書です。たとえばマタイによる福音書12章18-21節は、イザヤ書42章1-4節の引用です。「主の僕の歌」と呼ばれるものです。

新共同訳聖書の巻末に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」というものがあります。その中のマタイ12章18-20節は、「イザ42:1-3」の引用とあり、マタイ12章21節だけは「イザ42:4 LXX」の引用とあります。LXXは、ラテン文字による数字表記で「七十」という意味です。世界最古の旧約聖書の翻訳である「七十人訳聖書(ギリシャ語訳)」の略記号として用いられます。

つまりマタイ福音書12章18-20節はヘブライ語のイザヤ書42章1-3節の引用であり、12章21節だけがギリシャ語訳イザヤ書42章4節を引用であるというのです。不思議な現象です。

ということはマタイの教会にはヘブライ語とギリシャ語訳の二つの旧約聖書があったのでしょうか。「一覧表」によれば、マタイ福音書だけで62個所も旧約聖書が引用されていますが、そのうち6個所がLXXからの引用です。もし二冊あったとすれば、かなりヘブライ語聖書に偏った引用です。また、上記の例のように一続きの箇所で、そのような煩雑な作業をするだろうかという疑念も湧きます。4節だけLXXを引用する積極的な理由も不明です。

別の可能性もあります。マタイの教会には一冊のヘブライ語聖書だけがあったけれども、部分的には現在のヘブライ語聖書と文言が異なっており、むしろLXXの翻訳元と同じ文言が用いられていたという可能性です。62分の6という微妙な割合は、後者の可能性を強めます。マタイ教会としては、自分たちの所有しているヘブライ語のイザヤ書42章1-4節をギリシャ語に翻訳しつつ引用したけれども、42章4節だけが結果としてLXXに似てしまったという事態です。

この件はギリシャ語訳聖書の評価に関わります。現在にまで伝えられているLXXの価値は最古の翻訳という意義にとどまりません。現在正統とされているヘブライ語本文とは別系統の写本の「家系」があったことの証拠でもあるのです。実はLXXに伝えられている文言の方が、より古い元来の本文だった可能性もあります。最古最良のヘブライ語写本は紀元後11世紀のものですが、LXXの方はと言えば紀元後4世紀のものです。当然古い方が「原本」に近いのです。

マタイ教会所蔵のイザヤ書は正統ヘブライ語写本とLXXの元になったヘブライ語写本の二つの特徴を持つ「混合本文」だったのでしょう。JK