3/16今週の一言

3月16日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書10章32-33節を学びました。ルカ12章8-9節とほぼ同じ内容です。先週に引き続きマタイとルカが共有している「イエスの語録集」(未発掘なので口頭の伝承かもしれませんが、「Q資料」などと呼ばれます)からの引用です。ただしこの部分には、生前のイエスの発言というよりは、Q資料の担い手たちの思想が色濃く反映されています。

「わたしの仲間であると言い表す」(32節)と新共同訳が翻訳している言葉は、ギリシャ語においてはもっと簡潔な表現です。「わたしを告白する」とするのが素直な訳でしょう(岩波訳・田川建三訳・英欽定訳など)。これは信仰告白をするという意味で、初代教会が用いていた表現です。Q資料の担い手たちが教会用語をイエスの口にのぼせている可能性が高いと言えます。

信仰告白は、「人々の前で」なされるべきものです(32節)。バプテスマの必須要素として、会衆の前で信仰告白をする伝統の根拠がここにあります。志願者にとってはキリスト教徒になるためのハードルを高めている一方で、会衆にとっては感動的な場面をつくりだしています。

さらに単語レベルの原意を汲むと、「わたしを告白する」には、「わたしにおいて一つの言葉を言う」という含みもあります。信仰告白には教会を一つにする機能があります。「使徒信条」など伝統的な信条を大切にする教派は、使徒信条を唱和することで「一つの言葉を言う」ことを実践しています。

バプテスト教会においては個々人の個性ある信仰告白が、教会の信仰告白よりも上位にあります(さらに連盟信仰宣言よりも各個教会信仰告白の方が上位)。多様な信仰告白を聞いて、多様な構成員である教会員が「アーメン(その通り)」と認めるときに、「一つの言葉を言う」という事態になるのでしょう。

信仰告白の正反対は、イエスを人々の前で「自分の主ではない」と否むことです(33節)。その場合、イエスもその人を「天の父の前で」否定するという厳しい結論が待っています。同じ言葉は、ペトロがイエスを否定するという事件においても用いられています(27章72節)。となると、イエスはペトロを神の前で否定すべきと読めなくもありません。珍しい現象ですが、初代教皇とみなされマタイ福音書でも最大限に尊重されているペトロへの批判がここに記されています。

画一化に対する批判・多様性の確保が、複雑な経緯で一冊の本となった聖書それ自体にあります。この態度はバプテストが多様な個人を尊重する姿勢と通ずるところでもあります。 JK