4/6今週の一言

「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の著者ルカは、どのような人だったのでしょうか。他の福音書記者と同じく、誰が著者であるのかは著作中に明記されていません。「ルカが著者であるという推測」は、言い伝えを根拠に後世の教会指導者が確定させたものです。かなり蓋然性が高い推論と考えます。

大きな手がかりは使徒言行録16章6-10節にあります。著者はパウロ一行を「彼ら」(6節)から、「わたしたち」(10節)と転換させます。一行がトロアスという小アジア半島西辺の町に居り、これからバルカン半島マケドニアのフィリピという町へと渡航するときのことです。著者はトロアスかフィリピの人です。

パウロが見た幻で、「マケドニアに渡って来てください」と一行を招く人物こそルカだったという仮説があります(9節)。ルカがフィリピの人であり、トロアスまで一行を迎えに来たと考えるわけです。そうだとすると、腑に落ちることがあります。たとえば、使徒言行録20章6節で、再び「わたしたち」がフィリピからトロアスまでパウロ一行を迎えていることも、実に自然な流れとなります。

フィリピはローマ皇帝直轄の植民都市であり、町には現役・退役ローマ軍人も多く住んでいました(フィリピ4章22節「皇帝の家の人」)。ルカは、ローマ帝国の高官とのつきあいがある、フィリピ在住の非ユダヤ人キリスト者だったのでしょう。そういうわけで、ルカ福音書・使徒言行録(ルカ文書)の「献呈の辞」に、テオフィロというローマ帝国高官らしき人物が、言及されていると考えられます(ルカ1章1-4節・使徒1章1-2節)。

パウロは獄中で書いた手紙の中で、フィリピ教会をベタ褒めしています(フィリピ1章、Ⅱコリント8-9章)。フィリピ教会員ルカはエルサレム教会への献金を携え上り、パウロがエルサレムで逮捕された時に居合わせ(使徒21章1節「わたしたち」)、ローマへと護送された時に同行し(同27章1節「わたしたち」)、ローマで牢獄に入れられたパウロを支援していました(フィレモン24節)。

ルカ文書の文体から、著者がギリシャ語を第一言語とする教養人であることは明らかです。上述「献呈の辞」の体裁は、当時の歴史家が共有していたものです。その一方で、著者が医者であることまでは確証できません。「愛する医者ルカ」(コロサイ4章14節)という呼び名は、パウロを支えた人物という意味合いに由来するものでしょう。ルカはパウロの弟子というよりは対等の同労者です。

直筆の手紙に著されるパウロの思想と、ルカ文書におけるパウロの説教とはかなり異なります。ルカが自分の頭で「キリスト教史」を書いたことの証左です。JK