5/13今週の一言

5月13日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章12節を学びました。「主の祈り」の中の「第五祈願」と呼ばれるものです。ルカによる福音書11章4節前半に並行箇所があります。

原則的にルカとの共通箇所はイエスの元来の言葉である可能性が高いものです。この場合、後半の「自分に負い目のある人を赦す」という部分がそれです。前半の相違をどう考えるべきでしょうか。「負い目を赦してください」(マタイ)と、「罪を赦してください」(ルカ)のどちらが元来のイエスの言葉なのでしょうか。この場合判断が難しいのですが、「罪」という単語をルカが好むということから、「負い目」という単語が本来のものと推測します。

「負い目」の直訳は「借金」です。神に対する罪を「債務」と考えることはイエスに遡りえます(マタ18:21以下、ルカ7:41以下参照)。債務奴隷に身をやつした同胞/隣人の買い戻すことを「贖う」と呼び(レビ25章)、贖いが救いであると考えることは旧約聖書の伝統でもあります(イザ43章)。

第五祈願における「負い目」の特徴はその単語が複数形であることです。パウロは神への「原罪」を厳密に単数形に限って用います。引いたり割ったりできないからです。それに対してイエスは罪を複数で語ります。この事実は罪を決して抽象的なものにせず、日常の一つ一つの具体的行為にまで及ぼす効果を持ちます。

マタイ版とルカ版の大きな違いは、「わたしたちも赦した」と完了形で記すか(マタイ)、「わたしたちも赦す」と現在形で記す(ルカ)ことにもあります。これはギリシャ語レベルでは随分と異なるように見えますが、ヘブライ語(やアラム語)まで遡ると問題は解決します。ヘブライ語においては「預言の完了」という言い方があるからです。旧約聖書の預言者は完了形で未来の出来事を語りました。文法上先取りして断言できるのです。もしイエスがヘブライ語の完了形で「わたしたちも赦した」と語ったのならば、二種類の翻訳が可能です。マタイのように過去と訳しても、ルカのように現在・未来と訳しても構いません。

マタイの強調点に立つならば、神への赦しを祈る前提に隣人同士の赦し合いという実践が必要条件となります。この実践はハードルの高い要求です。しかし理想なしに向上はありえないでしょう。 JK