5/20今週の一言

5月20日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章13節を学びました。「主の祈り」の中の「第六祈願」と呼ばれるものです。ルカによる福音書11章4節後半に並行箇所があります。

「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は、マタイ版・ルカ版に単語レベルで共通しています。問題は、マタイが「わたしたちを悪/悪人から救ってください」と付け加えていることです。この「救う」という単語(ルオマイ)は「危難からの守り」を含意し、マタイ27:43でも用いられています。十字架に架けられているイエスに対する罵倒の言葉の一部です。ここに「悪」が何かの示唆があります。冤罪で人を殺すことが悪です。

「誘惑」という単語も十字架との関係で重要です。神の子イエスの「最後の誘惑」は、十字架から降りること/神に十字架からの脱出を祈ることだったことでしょう。十字架へ向かうイエスに対して諌めるペトロを、イエスは「サタン、退け」と批判します(マタ16:23)。ペトロは誘惑者としての役を担っています。イエスはその誘惑に打ち勝って十字架へと向かいます。

最後の誘惑は「最初の誘惑」と呼応しています(マタ4:1-11)。「退け、サタン」(4:10)という、ペトロに対するのと全く同じ言葉で、イエスは誘惑する者・悪魔・サタンからの誘惑に打ち勝ちました。つまり誘惑とは、十字架への道を断念させようとする働きかけなのです。

十字架への道は「仕えることの徹底」です。神にのみひれ伏し拝し、倒れている者の隣人になり、お互いに足を洗い合い給仕し合う生き方です。仕える生き方は悪魔にひれ伏すことの対極です。悪魔にひれ伏すとは自らの支配欲に負けて、全世界をも貪り隣人を搾取するという生き方です。それこそイエスを十字架で殺した勢力です。罪とも呼びます。わたしたちは程度の差こそあれ、毎日、この種の誘惑に直面し、ややもすると悪の側に引っ張りこまれてしまいます。それほどに誘惑の引力は強いからです。

第六祈願は信仰生活の現実から生まれた祈りです。キリスト者として誠実に生きる時に必ず毎日神からの試みがあります。支配欲との葛藤。イエス・キリストのみが打ち勝ったということがわたしたちの信仰であり希望であり模範です。 JK