8/21今週の一言

ヨハネによる福音書に加筆部分があるということは、そんなに驚くべき事実ではありません。そのほかの文書にも大なり小なり、原著者以外の後世の人の加筆や修正や削除があるからです。およそ聖書というものは、絶え間ない編集作業を経て徐々に今のかたちとなったのです。増減は一つの文書内でも起こるし、文書間でも起こります。最初の数世紀、無制限に新たな手紙や福音書が書き起されました(増量)。その後、「ふさわしい文書以外を正典に含めない」という決議がされ(減量)、現在の分量が定まったのです。西方キリスト教のうちのプロテスタント諸派の場合、正典は旧約39文書・新約27文書です。選ばれなかった文書を、「外典」「偽典」と呼びます。

「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの手紙一」は、新約聖書の中に収められるにふさわしいと認定されました。その際に二つの文書は同じ著者によるとみなされました。確かに二文書間に共通の思想は多くあります。しかし共通しているということの理由は、「著者が同じであるから」とは限りません。

新約聖書学者の田川建三は、「ヨハネによる福音書の著者の書いた文章に、ヨハネの手紙一の著者が大量に加筆を加えた」と推定します。だから、両文書に共通の思想が部分的に残されたというわけです。この推論に基づいて、田川は以下の箇所の全部または一部が書き加えられた可能性があるとします。

1:10-18。3:5・11-21。4:22。5:14・28-29・39・45-47。6:28-29・36-40・44-46・51-58。7:38-39。8:51。11:49-52。12:37-41・48-50。13:10-11・18-20・28-29・32-35。14:3・12-15・20-25・28。15章-17章。18:9・13-14・32。19:23-24・28・34-37。20:9・17・19-27・30-31。

※21章全体は、さらに後代の加筆とされます。

ギリシャ語の単語・構文を精緻に分析した田川の立論には説得力があります。ただし、この両文書を生み出し礼拝の中で用い続けた共同体についての考察を加える必要があります。それは両文書を正典に選んだ信仰共同体と、その選びを継承する、わたしたちの教会をつなげる視座です。なぜ書き加えたくなったのか、なぜ加筆を喜んで受け取ったのか、なぜ一つの「ヨハネ文書」とくくったのか。ばらばらに分析した後に統合していく思考・試行が大切です。大まかに、迫害下を忍苦するための選民思想が加筆され教界内部批判が薄められています。JK