9/18今週の一言

9月18日の祈り会で創世記18章16-26節を学びました。

思想の流れに注目しながら旧約聖書を読み進めています。前8-6世紀の預言者たちの言葉は、五書を形成したヤハウィスト(J集団)にも影響を与えています。預言者たちは破局に警告を発し、J集団はバビロン捕囚(前587-539)という破局を経験して記述しています。

エデンの園からチグリス・ユーフラテス両大河が流れていること、洪水という破局、地名バビロンと同じ綴りの巨大な塔建築批判などの物語は、メソポタミア文明と聖書記者との出会いを前提にすると理解しやすいものです。出メソポタミアを果たし約束の地に仮住まいするアブラハム・サラ夫妻は、バビロンからの帰還を希望するユダヤの民の模範です。

ソドムとゴモラという町の滅亡物語は古くから知られていました(イザ1:9以下、エレ23:14、エゼ16:46以下)。二つの町はその悪のゆえに神から裁かれたと考えられていました。アモスによれば悪とは「正義」と「公正(な裁き)」の欠如です(アモ5:24)。J集団は「悪いものは裁かれ滅ぼされて当然」という思考に挑戦します。この短絡は、さまざまな現実に答えきれていないからです。

たとえば、悪い者が栄えている場合があります。新バビロニア帝国の繁栄はなにゆえなのでしょうか。また、たとえば、町全体が滅びる結果をもたらす悪とは、どの程度までの悪なのでしょうか。町の住民の過半数が悪いことなのか、為政者が悪いことなのか。いずれにしろその町に住む「正義と公正を行っている義人」が滅ぼされるのは不当な仕打ちです。この問いは、ヨブ記の主題とも重なります。不条理の苦しみに遭う義人が、神に「正義とは何か」を問うているからです。旧約学者の並木浩一はヤハウィストとヨブ記の著者との連関性を指摘します。

アブラハムはソドムの住民である甥のロト一家の救いのために、裁き主の翻意を試みます。「少数の義人のために圧倒的多数の悪人もいのちが救われるべきである」と主張します。ほんの10人でも義人がいれば町全体は保たれるべきというのです。ここに先ほどの問いに対する神学的答えがあります。

悪人が栄えるままの世界が今日まで支えられている理由は、地の塩・世の光として生きる少数の義人のゆえです。イエス・キリストはその中の最大・究極のお方です。JK