9/4今週の一言

9月4日の祈り会で創世記16章1-16節を学びました。

ガザ地区へのイスラエル軍による殺戮行為のそもそもの原因は、第二次大戦後米国の力を背景にイスラエル国が当初の線引きを守らずにパレスチナ人を殺しながら支配権を拡大し続けていったことにあります。この経緯をも踏まえて、イスラム教徒への偏見や敵意を助長する聖書解釈は慎むべきです。

創世記16章はアラブ系イスラム教徒の先祖とされるイシュマエル(神は聞くの意)の母親ハガルの物語です。イスラエル民族の先祖とされるサライから虐待を受け、逃亡するエジプト人奴隷ハガルの叫びを、神は見ます。この物語は全体として出エジプト物語を鏡写しにしています。エジプトの奴隷だったイスラエル民族の受けた虐待を神は見て、彼ら彼女らの叫びを聞いて、逃亡させるからです。救い主はイスラエル民族主義の神ではなく、被抑圧者の神なのです。

12節は、反イスラムのユダヤ教徒・キリスト教徒の目で訳されてきました。そして「イスラム教徒は暴力的」という刷り込みに悪用されてきました。直訳風の私訳は以下の通りです。「そして彼(イシュマエル)こそが、人のロバとなる。彼の手は皆の中に(あり)皆の手は彼の中に(ある)。そして彼の兄弟皆の前に、彼は住む。」わたしたちはこの箇所を、ロバに乗ってこられた平和の主イエス・キリストの視点で翻訳・解釈すべきです。なぜかと言えば、インマヌエル預言と呼ばれるイザヤ7:14(マタイ1:23も)と11節は酷似しているからです。

イシュマエルは敵対的人物ではありません。軍隊の象徴である馬ではなく、「人の(ために仕える)ロバ」に喩えられているからです。イシュマエルは多様な人々と共に生きる人物です。「手」は支配権を意味する言葉です。彼はすべての人に自分の支配権を委ねます。それと同時に、まただからこそ、すべての人は支配権を彼に委ねるのです。この意味ですべての人と手と手を重ね触れ合いながら協力します。その協力は「共依存」的なものでもなく、適切に距離を保っています。それが「兄弟皆の前に住む」という言葉の意味でしょう。群れの中に埋没もせず、群れを上から支配もしないわけです。イシュマエルはイエス・キリストの一面を指し示す「メシア的人物」なのです。

平和とは多様性を認め合う寛容な社会です。イスラエル国家とパレスチナ自治政府との平和的共存の道を模索する努力が必要です。 JK