自由民主党改憲草案批判⑤
基本的人権の尊重① 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、アダムを造ろう」
日本国憲法 |
自由民主党改憲草案 |
十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 ② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 |
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
(身体の拘束及び苦役からの自由) 第十八条 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。 2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 (思想及び良心の自由) 第十九条 思想及び良心の自由は、保障する。 (個人情報の不当取得の禁止等) 第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。 (信教の自由) 第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。 (表現の自由) 第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。 2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
(憲法尊重擁護義務) 第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。 2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。 |
1. 全体の問題
『草案』の全体の問題は「個人よりも国家」という主張が強いことにあります。たとえば、①個人の人権を前提にした「公共の福祉」という考え方を否定し、国家の権限を前提にした「公益および公の秩序」という考え方を持ち込んでいること、②『憲法』の九十七条を全文削除し、個人の人権の不可侵性を薄めていること、③天皇や摂政の憲法尊重擁護義務を除外し、逆に全ての国民に憲法尊重義務を定めていることが、その現れです。
『草案』がいわゆる「絶対的禁止事項」と呼ばれる、人権条項の中でも特に不可侵とされるものの表現を弱めているのも、国家のためならばある程度の人権制約は認められるという「上から目線」のゆえでしょう。たとえば、『憲法』十八条の「奴隷的拘束」や、十九条の「内心の自由の侵害」、三十六条の「拷問及び残虐刑」が絶対的禁止事項です。
2.各条文の問題
二十条の信教の自由・政教分離原則については八十九条と関連させて次回取り上げますので、今回はそれ以外の条文について注釈します。
『憲法』十三条の個人の幸福追求権は、「自由の基礎法」(国家に人権を守らせるための砦)である立憲主義的憲法の中心条文です。自民党は、<『憲法』に行き過ぎた個人主義が明記されているのでわがままな人が増えた>という非実証的かつ立憲主義についての無知を示す暴論を喧伝しています。この暴論に則って、「個人」を「人」と言い換えています。
「公共の福祉」とは、人権と人権がぶつかり合った時の調整概念です。つまり、誰かの「したい」という自由と、別の誰かの「したい」という自由が両立しない時に、両者のためにどのような妥協が必要でありどのような妥協までが許されるかを慎重に判断しましょうということです。『草案』はそのような熟議の民主主義を否定し、時の政権によって任意に即断できる「公益及び公の秩序」によって、個人の人権を制約できるとします。報道が最近「国益」という単語を多用することに注意が必要です。なぜなら個人の幸福追求権が国益に勝るということが立憲主義的憲法の肝だからです。この趣旨・憲法のそもそもの目的に立ち戻って考えることが大切です。
『憲法』十八条の奴隷的拘束の禁止は徴兵制否定の根拠とされてきました。自衛隊も募兵制です。『草案』によれば、「社会的及び経済的関係において身体を拘束され」ません。逆から言うと、社会的経済的関係でなければその意に反しても身体拘束できるということです。国家の一大事であれば徴兵が可能となり、徴兵を拒否すれば軍事裁判所で死刑とされかねません(石破茂発言による)。さらにもう一つ。社会的経済的関係においては完全に自由であるということは、現代のグローバリゼーション(世界中での金儲け)を反映しているという指摘があります。ここには経済至上主義が見えます。国籍をまたいで経済搾取をすることは国是となるのです。自衛隊海外派兵賛成の理由の一つに在外国日本人企業家の保護があることと軌を一にします。「アベノミクス」の方が原子力行政や憲法改悪よりも票となってしまう戦後社会の問題性をここにも思います。
『草案』は十九条を「侵してはならない」から「保障する」として、内心の自由という権利の重要性を薄めています。また、十九条の2を新設し、一見問題のない条文を加えています。それは「新しい人権」と呼ばれるものの一つである「プライバシー権」です。『草案』のこの部分は現在の情勢において重大な意味を持ちます。参議院で自民・公明・みんな・維新の4党の合計議席が162、ちょうど全242議席の3分の2です。この状況が三年間は続きます。つまりこの間は公明党も賛成できる改憲原案が発議されうるということです。そして「新しい人権」を加えることは公明党の持論なのです。向こう三年の改憲案は公明党主張の「加憲」でしょう。わたしたちはこれに対して、十三条の個人の幸福追求権が「新しい人権」をすべて包含していると反論できます。
『憲法』二十条の表現の自由は、自分らしさを実現する権利と民主主義に参与する政治態度の表明の権利を柱とします。そう考えると『草案』の二十一条2項はとんでもない条項です。「公益および公の秩序を害することを目的」としたか否かという、時の政権が任意に定める物差しによって、あらゆる表現の自由が制約されうるからです。特に政権批判をする結社が弾圧される可能性が高いと言えます。いや批判勢力だけではありません。国家権力が「公益を害そうとした」とみなす者はすべて表現の自由が制限されるのです。教会に集まることそのものが制約され、説教や祈りが取締の対象になる可能性があります。
『草案』はこの内容について国民に遵守義務を課しています。
3. 神の似姿
『憲法』は天賦人権説に立ち、生まれながらにしてすべての人に人権が不可侵のものとして無条件に与えられていると考えます(十一条・九十七条)。この考えは、聖書の語る「人は神の似姿である」という教えに淵源します(創1:26)。26節の原文は「人」と訳されるところを冠詞なしの「アダム」という名詞で表現しています。「とある個人」とも、「アダムという人」とも解しえます。これらの意味をも込めて人権は神が個人に与えた自由に生きる権利です。この神の愛からわたしたちを引き離すものは何もありません。
憲法は「自由の基礎法」です。かけがえのないひとりひとりの人権(神の似姿性)・名前を持つ個人の自由を、国家権力に守らせるための道具です。『憲法』が根本の意味を変えられる前に、『憲法』を用いて、『草案』のような「壊憲」案を押し付けてくる国家権力を批判し縛りましょう。