憲法の話 自由民主党改憲草案批判⑥

自由民主党改憲草案批判⑥

基本的人権の尊重② バプテストの終わりなき闘い

日本国憲法

自由民主党改憲草案

 

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

 

 

 

 

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 

八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

(思想及び良心の自由)

第十九条 思想及び良心の自由は、保障する

(個人情報の不当取得の禁止等)  

第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない

 

(信教の自由)

第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。

 

 

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 

3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない

 

(公の財産の支出及び利用の制限)

第八十九条 公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。

2 公金その他の公の財産は、国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。

1. 前号の補足

まず前号の書き残しである新設された十九条の2の内容そのものの問題性を指摘します。それは条文の宛名、文章の主語です。「何人も」とあり、「国家権力」となっていません。この条文はわたしたちのプライバシー権を守るために権力が縛られるというよりは、権力の側がわたしたちの情報を管理する方向に用いられる可能性があります。たとえば、公人に関する情報は選挙の際や、最高裁裁判官の審査の際には重要な判断材料になりえます。それらの有用な情報を知る権利が制約されかねないわけです。

2. 信教の自由

思想・良心の自由(十九条)と信教の自由(二十条)は人権の中核です。平たく言えば、何を考えても良い自由・何を信じても良いという自由です。表現の自由と併せて、これら心の自由なしには民主主義は機能しません。なぜでしょうか。

それは、もしいったん心の自由が国家権力によって支配された場合、その支配を取り除くことが民主的な手続きを通じてもとても難しくなるからです。時の政権を批判する表現が禁じられ、時の政権を常に肯定するように教育・報道され続けるなら、異なる主張の政党への政権交代をすることは難しくなります。批判能力が減じられ批判の手段が奪われるからです。その結果独裁政治を許すことになり民主主義は形骸化します。戦時中の日本の社会を考えれば分かるでしょう。だからこそ民主主義を補完するため、人権を守らせるために憲法によって権力を縛るという立憲主義が必要なのです。立憲主義憲法の中核は心の自由を守らせることにあり、その程度によってその国の立憲民主主義の成熟度が測れます。

『草案』は人権の中核たる心の自由の保障程度を弱めています。十九条では『憲法』の「侵してはならない」を「保障する」に書き変え、二十条では『憲法』の「何人に対しても」を削除しています。この改訂の目的は、「特定の場合には内心の自由を侵しても良い」「特定の場合には特定の人に対して信教の自由を認めなくても良い」と解釈できる点にあります。もちろん「場合」を「特定」する権限は国家権力が握っています。

『草案』によれば、国旗国歌尊重義務をも理由にして(『草案』三条参照)、歌いたくない歌を歌わない自由・拝みたくないものを拝まない自由を踏みにじることが「合憲」となります。また国家権力の任意で、キリスト教の礼拝に参加し賛美歌を歌うことや復活の主を拝むことが制限されたり、○○バプテスト教会の教会員となることが制限されたりすることも「合憲」となります。

そのような状況は17世紀英国で初代バプテストたちが非合法とされながらも、「良心の主はイエス・キリストのみ」と主張した状況とよく似ています。当時の英国国教会のようではない礼拝様式を求め、「国王は良心の主ではない」と主張して、バプテストは国教会から分離したのでした。『草案』のような改憲は400年前への逆戻りという意味で愚の極みです。先人の遺産を食いつぶさない不断の努力がわたしたちに必要です。

 

3. 政教分離原則

政教分離原則は、上述絶対不可侵の重要性を持つ心の自由を、主権者一人ひとりに保障するための制度です。明治憲法下の国家神道による人権侵害を反省し、『憲法』は厳格な政教分離原則を規定しました(二十条・八十九条)。特定の宗教が国家に利用された時に、それ以外の信条の人たちへの弾圧や、時の政権べったりの思想統制が容易にできるようになるからです。ですから政教分離原則の趣旨は、国家の中立性と国家による特定宗教団体の利用を禁じることにあります。しばしば誤解されるように、政教分離とは教会の政治への参与を禁じることではありません。『憲法』二十条一項の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」は、上述のように解すべき条文です。ちなみにこの部分を『草案』が削除したのはおそらく公明党への配慮でしょう。

『草案』の問題点は、二十条三項の「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」というただし書の付け加えと、それに呼応した八十九条の「第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、」という付け加えです。この付加は明確に神社本庁や靖国神社という特定の宗教法人を保護することを目的としたものです。すなわち、「神社神道は宗教ではなく、社会儀礼や習俗でしかない」 という主張、それゆえにこそ、「神道式の儀式に公金が支出されても、公人が神社を参拝しても社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」という詭弁のための改訂です。

八十九条の趣旨は、財政面から政教分離原則という制度を支えることにあります。政教分離原則を骨抜きにしないためには納税者が主権者であるという意識も必要とされます。信教の自由という人権の不可侵性 → それゆえに信教の自由を守らせるために厳格な政教分離原則という制度 → それゆえに制度を支えるために公金の使途監視という論理の流れが大切です。

さて、『憲法』八十九条の「公の支配に属しない」を、『草案』が「国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない」と改訂していることには、キリスト教学校など私学助成金の観点から注意が必要です。過去の高裁判例は、「公金の濫費・濫用がない程度に監督できていれば私学助成も合憲」としています。それは「公の支配」という緩やかな表現だったからこその憲法判断でした。もし『草案』の「監督」という単語が、「公共団体による強度の監督を意味する」と解釈する方向を持っているならば、特定の学校などを狙い撃ちにした私学助成停止を時の政権が主張しかねないでしょう。

 

4.終わりに

厳格な政教分離原則は主に米国のバプテストたちが発展させ米国憲法に具現化し、アジア・太平洋戦争の反省を経て、日本国憲法に実現した知恵です。その趣旨は、たとえば米国先住民の信仰実践など少数者の思想信条の自由を守ることにあります。

日本のキリスト者が宗教的少数者であることにはある一定の意義があります。わたしたちが権力に対する憤りを持続するため、また、人権侵害を被っている人と連帯するためには有利な点だからです。逆から言えば、キリスト教が多数者の宗教となり、国家から利用され癒着した時になした悪事の数々を、わたしたちは世界史的反省として決して忘れてはいけません。そのような「正統」キリスト教から、「異端」と断じられて初代バプテストたちは迫害されたのです。宗教的多数者となる時に、わたしたちは自らの求めていた信教の自由・政教分離原則を少数者に保障できるかが問われます。これは終わりなき寛容な社会実現のための闘いです。日本国憲法をその道具として大いに用いましょう。

※上記の内容に基づいて、9月14日東京地方バプテスト教会連合の「宣教会議」にて城倉啓が発題しました。