はじめに
今朝は、イエスの譬~親切なサマリア人の話を通して聖書からイエスの招きを聴いていきたいと思います。
わたしたちが使っている新共同訳聖書は、10章25~37節を「善いサマリア人」と小見出しをつけて一つの物語としています。岩波訳では、25~29節を「最大の掟」、30~37節を「サマリア人に親切にされた人の譬」と二つに分けています。聖書の翻訳はさまざまで、節の区切り方にも違いがあります。今朝の聖書箇所は10章29節から37節までを選ばせていただきました。
わたしの隣人とは誰か
29節 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
わたしの隣人とはだれか、という問いは、彼、すなわちある律法の専門家がイエスを試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)と質問したことに始まっています。律法の専門家とは、モーセの律法と、その多くの規則と規定のすべての専門家で、律法を解釈する人たちです。この律法の専門家は、自分の質問の答えを知ろうとしたのではなく、イエスを厳しく追及するきっかけを掴みたかったのです。イエスは律法の専門家に、「律法には何と書かれているか。あなたはどのように読んでいるか」(26節)と、逆に問い返します。相手は律法の専門家だから聖書はお手のもの。「心を尽くし、精神(魂)を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)とあります、と答えました。27節前半は申命記6章5節の引用に「思いを尽くして」が加えられており、後半の隣人を自分のように愛することは、レビ記19章18節に由来しています。申命記とレビ記の二つの戒めがいつ頃結合してユダヤ伝承に定着したのか定かではないようですが、ある本によれば、ヘレニズム世界において「敬神と人間愛は一つの倫理の両側面」とされていたとのことです。
イエスを試そうとした律法の専門家は、結果として自分の質問に自分で答えることになりました。イエスは律法の専門家に「正しい答えだ。それを行いなさい。そうすれば命が得られる(生きるだろう)」(28節)と言われました。愛について理論づけはいらない。それを行いなさいということです。納得がいかないこの律法の専門家は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とは誰ですか」とイエスに問います。つまり、わたしはどこで隣人とそうでない人の線を引くのですかという問いです。
聖書が書かれた当時の敬虔なユダヤ人たちは、隣人を限られた責任範囲内で理解していました。隣人とはユダヤ人であって、異邦人といわれる人や、異教化したサマリアの人を隣人に含めることは認めていませんでした。
サマリアは、722年アッシリアによって北王国が滅亡した後、ここに外国人が植民移住させられて、残っていた住民との間に結婚が始まり、宗教生活や社会生活がいちじるしく異教化したため、ユダヤ教の人たちから蔑まれ差別の対象とされていました。サマリア人は、民族主義を固辞するユダヤ人の隣人の枠から排除されていたのです。
しかし、旧約本文にはユダヤ人以外の人も隣人の中に含まれるということが書かれています。「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ19:34)人を分け隔てなく愛しなさいという神の戒めです。
この戒めがあるにもかかわらず、この律法の専門家は、イエスに「わたしの隣人とはだれですか」と問うているのです。この背景には、紀元後1世紀末以降の後期ユダヤ教が、民族主義の高まりとともに、隣人から他民族を排除する過程をたどってきたことがあります。律法の専門家の質問は、イエスの答えを知ろうとしたのではなく、イエスを厳しく追及したいと思っているだけです。そのことをご存じのイエスは、彼との論争を避け、譬を通してその人の問いが間違っていることを示そうとされるのです。
ルカ福音書は80年代に成立したと見なされています。ルカ信仰共同体には、異邦人でありつつもユダヤ教に同調する、いわゆる「神を畏れる者たち」出自の異邦人キリスト者が多数いたと想定されています。後期ユダヤ教が民族主義の高まりとともに排他的になっている中、福音書記者は、教会に向けて、このサマリア人の譬を通して、イエス・キリストの信仰にあずかりキリスト者として生きる信徒の姿を指し示しているのではないかと考えます。
イエスの譬―親切なサマリア人の話
10:30
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎ(たち)に襲われた。追いはぎ(たち)はその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
「ある人」は状況から考えてユダヤ人。その人が、エルサレム(海抜790m)からエリコ(地中海面下およそ250m)まで約27キロの、坂になっている危険な岩の多い道、いわゆる「流血の道」といわれるところを進んでいた時に突然起こった事件で、その人は強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていました。
10:31~32
ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ここでの祭司とレビ人は、民数記19章11節「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」という規定によって自分を汚さないようにしようとしたのか、ここにいたら自分も襲われるのではないかと恐れたのか、単純に親切心のない人なのか、わたしたちには分かりません。おそらく二人は自分自身に何らかの言い訳をしてその場を立ち去ったのでしょう。
もしわたしがこの場面に遭遇したらどうするだろうかと考えると、そう簡単にはいきません。ここでの祭司とレビ人の姿は、人間誰もがもっている人間性だと言えます。そうでない人もいるでしょうが。倒れている人に手を差し伸べるにはとても勇気が要ります。
10:33~35
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い(断腸の想いに駆られた)、近寄って傷に油(オリーブ油)とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろば(家畜)に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」
デナリオンは新約時代に通用していたローマの貨幣で、1デナリオンは当時の労働者の1日の賃金にあたる額。2デナリオンは2日分の賃金を渡したことになります。さらにこのサマリア人は、費用がもっとかかったら、帰りがけに払うとまで言うのです。その人の名前も、またどこから来て、何をしている人なのかも分からないのに、です。この物語で、サマリア人は、助けたその人に何も尋ねていません。国、民族、人種を問うことなく、自分にとって敵か味方かではなく、ただ傷を負って助けを必要としている一人の人として放ってはおけず、近寄って行って助け、その人の命の回復を願っているだけです。このサマリア人から、人を分け隔てしないということを学ばされます。そして、もう一つ学ぶことは、このサマリア人は、自分自身のことも大切にしているということです。この人には何か大事な用事があったのでしょう。宿屋の主人にその人の介抱を託して宿屋から離れ、また戻ってくるというのです。人間には限界があり、自分の生活もある。何もかも自分一人で抱え込むのではなく、傷を負った人のいのちの回復のために誰かと連携して共に担う、この姿勢がだいじだと教えられます。
隣人になる
10:36~37
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人(盗賊どもの手に落ちた者)の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」「彼に憐れみ(の業)を行った者です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ここで「隣人」の理解が「助けられる人」から「助ける人」に変わります。29節の「隣人」は助けられる人で、隣人という枠に含まれる人と含まれない人の線引きがあります。36節の「隣人」は助ける人になることで、国、民族、人種などの枠を超えて助ける人です。イエスによる隣人の意味の逆転です。
「行って、あなたも同じようにしなさい」、イエスのこの言葉は、サマリア人と同じように人を助け、お金も出し、親切にしなさいという勧めではなく、助けを必要としている人を、国や民族や人種といったもので分け隔てせず一人の人として区別なく愛することへとわたしたちを導く招きの言葉です。人を分け隔てしないで互いに愛し合う、そこに平和の実現があります。
わたしたちは時々〇〇ファーストという言葉を聞きます。アメリカ・ファーストや都民ファースト、など。弱い立場の者ファーストなら話は違ってきますが、力あるものやマジョリティが優先されるファーストは問題だと思います。それにファーストをつくることはセカンドをつくることであり、人と人の間に線が引かれ排除される人を生み出すことにもなるので、どうなのでしょうか。
また、こんにち日本はもちろん世界中で、「追いはぎに襲われ傷を負って」助けを必要としている人たちの現実が多くあります。紛争、戦争、災害、経済格差、貧困の問題、環境破壊による問題、人権侵害、等など。沖縄のことも益々深刻になっています。心が痛む現実を前に途方に暮れることもあります。しかし、希望を失わずに聖書の言葉に聴き、神の助けを祈り求めつつ、どんなに小さなことでもいいので「隣人になる」ことができるようになりたいものです。そして一人ではなく誰かと共に、を大切に。いま何かができなくても、まずは関心をもって、祈ることから。