マタイ2:1-12(新約2ページ)
今日の聖書箇所もクリスマスページェントで取り上げられている有名な部分です。そこで今日は、一つ一つの言葉を取り上げて説明し、最後に現代の問題にひきつけてお話をしたいと思います。
(1) ヘロデ王
ヘロデ王はイドマヤ人とユダヤ人の間に生まれた人物です。父親の代からユダヤ地方の支配者になろうとし、ローマ帝国に取り入り、ユダヤ人の王になることを承認された人物です。『ユダヤ古代誌』という本にも載っている歴史上の人物です。ちなみにこのヘロデは紀元前4年に死んでいるので、キリストの誕生は紀元後1年ではありえません。それを目指して西暦の基準年を設定したのですが。AD(Anno Domini:主の年の意)。
(2) ユダヤ人の王
ヘロデ自身はユダヤ人ではなく「半ユダヤ人」でした。そのためいつもユダヤ人から軽蔑されていました。またユダヤ人は自分のことをメシア(ユダヤ人の王ダビデの再来)と認めていないことを知っていました。そしてユダヤ人の王になろうとする者によるクーデターを恐れていました。彼は自分の妻や息子でさえ粛清した人物です。それほどにユダヤ人の王という地位にしがみついていたのです。背景には「混血」差別があります。
(3) 占星術の学者たち
パレスチナから見て「東の方」というのは現在のイラクのあたりです。メソポタミア地方と言います。そのあたりは有史以来天文学が盛んでした。おそらく「東方神起」というグループ名は、この聖句にヒントを得ているのだと思います。「占星術」は当時の「科学」=文明の粋です。だからこそ、「占星術の学者」という奇妙な表現が成り立つのです。彼らの人数について聖書は明記していません。三つの贈り物があったので三人であると解されるようになりましたが、教派によっては八人ほどいる場合もあります。
(4) エルサレム
エルサレムはユダヤ王国の首都です。この町はダビデ王以来首都とされていました。そしてイエスが殺された町でもあります。つまり、ここでマタイ福音書はお話のゴールも示しています。ベツレヘムで生まれたメシアは、エルサレムで殺されるユダヤ人の王であるということです(ヨハネ19:19)。
(5) ベツレヘム
ベツレヘムはダビデ王の生まれた村です。「パンの家」という意味のかわいい名前です。エルサレムへの言及もベツレヘムへの言及も、イエスが「ダビデの子(孫)」(1:1)であることを福音書記者は語りたいということです。ただし、以前にも申し上げたとおり、ヨセフとイエスとのあいだには血の繋がりはありません。
(6) 預言者ミカ(ミカ書5:1-5参照)
キリスト教徒は旧約聖書を任意に引用して自分たちの立場の根拠にします。マタイはその中の代表選手です。紀元前8世紀に生きていたミカの言葉を800年超えて実現した予言と捉えるのです。この考え方がユダヤ教徒との対立を深めました。
この場合、ミカが戦災に遭ったこと(前701年、エルサレム攻囲戦)、それを受けて平和を打ち立てるメシアを希求する預言の内容が、イエス・キリストの誕生と重なることは意義深いことです。イエスは「平和の主」と呼ばれるからです。また、前8世紀の「アッシリアの平和(軍事力による平定)」と前1世紀の「ローマの平和」が重なり合うからです。
こういったことを考え合わせると、この聖句は強引ではないかたちで「予言」とみなされているようにも思えます。
(7) Christ-mas
クリスマスという言葉は二つの部分から成ります。「キリスト」と「礼拝(ミサ)」の二つです。占星術の学者たちが行ったことに因む表現です。彼らは幼児のイエスに会って礼拝するために来たのだし、事実そのように行ったからです。
(8)持っている者こそ怯える
何かを持っている人は失うことを恐れます。権力の座に着いているヘロデ王、エルサレムの祭司長・律法学者たちはそうです。握った手を開くことができる人だけが隣人と手をつなぐことができます。空手になることによって、逆説的に多くを得るのです。お金儲けだけがすべてなのかということが問われています。原発推進に逆戻り、お金を得ることだけ/損しないことだけが理由だとしたら大きなものを失うでしょう。
(9)利他的に生きる
今日の聖句はプレゼントをすることの喜びが書かれています。利他的に生きることが本当に人間らしい喜びだということでしょう。外国人の大人がメシアになるかもしれない子どもを拝み、贈り物を与えるためだけに、1,000km以上の旅をするのです。何かを貪り得ることよりも、何かを誰かに与える方が幸いなのだと思います。福島の子どもに何を与えることができるのか、真剣に考えざるをえません。