(1) 権力者による虐殺行為
クリスマス物語の後日談は後味の悪いお話です。占星術の学者たちがイエスの居た場所をヘロデ王に告げないで帰ったことに対する、ヘロデ王の報復が書いてあるからです。しかもそれは二歳以下の男の子を皆殺しにするという虐殺行為だったのです。
個人の課題として支配欲という厄介なものがあります。これを聖書では「罪」と呼びます。相手を言いなりにしたいという気持ちです。どんな人にもあることでしょう。
しかし、心の中だけにおさめて支配欲が外に出ないのなら犯罪行為ではありません。権力を持つ者は支配欲をそのまま外に及ぼすことができます。社会・組織・団体の課題として力の濫用ということが問題になります。誰かにある働きを委ねることがあります。国会議員でも、王でも同じです。その人が力を濫用して頼んでもいないことをすることが多いので問題です。
ルワンダの虐殺事件をご存知でしょうか。1994年4月から約100日間で、80万人とも100万人とも言われる人がルワンダで殺されました。権力を握り90年ごろから民衆をメディアその他で扇動していたフツ族の人が、ツチ族の人など殺しました。一般には庶民が庶民を殺したと言われますが、実は権力側の長い期間かけた準備のもとに行われた虐殺でした。
ルワンダは90%以上がキリスト者の「キリスト教国」です。何を信じていてもだめなときはだめなのです。支配欲と力の濫用、これを常に牽制し抑制する仕組みが必要です。誰でもヘロデになりうる危険があります。関東大震災の時もそうでしたから。
(2) 救い主は難民
マリアとヨセフは逃げます。子どものためなら親という人種は何でもしようと思うのではないでしょうか。ベツレヘムから外国のエジプトに逃げます。現在のガザ地区などを抜けて亡命したのです。
子どもを助けようとして逃げるのですが、そのおかげで自分たち夫婦も生き延びることになります。というのも、「天使」が夢でお告げを語るということが起こっているからです。逆説的に子どもに救われるということです。これはわたしたちにも時々起こる逆転現象です。ボランティアに行ったら被災者に励まされるみたいな逆転です。
さて聖書には「原因譚」と呼ばれる物語が多くあります。原因譚とは、ものごとの由来を教える物語です。ヨセフ・マリア・イエスの一家が、なぜガリラヤに住んでいたのかを説明するために、ベツレヘムで生まれ、エジプトに亡命し、ガリラヤに引っ越したという経緯を説明しているのです。
その意味で、この物語に史的信憑性はあまりありません。最古の福音書マルコにはごっそり抜けている物語です。なくても構わないでしょう。物語が言いたいことは、権力者の横暴の問題性です。そしてイエスはそのような暴力と反対側の人であると言いたいのですから、そこさえ理解できればこの話が本当にあったのかなかったのかなどはどうでも良いのです。
(3) 不条理の死/生 罪責感をもって生きる
さて、イエスが暴力に反対であるとしても、なおひっかかる記述があります。それは、イエスが一人生き延びた一方で、ベツレヘム周辺の二歳以下の多くの男児が殺されたということをどのように考えたらよいかということです。天使はあまりにも不公平です。保護者たちの知る権利はどうなるのかとも思えます。
細かいことを指摘するならば、男の子だけが虐殺対象です。ここにも性差別があります。ここでは皮肉なことに出世しやすい者が殺されています。男性優位の社会は、全体として問題です。まず被害者女性たちへのより良い選択をする機会を奪う点でだめです。それは「女らしさ」の強要でもあります。そしてその裏返しとして、いわゆる「男らしくない」男性も暮らしにくい仕組みでもあります。
この場面、生と死を分かつものは何かが不明であり、納得のできない理由です。ベツレヘムの二歳以下の男子とその家族にとって、これは不条理の苦しみです。この数十年後、この時生き延びた赤ん坊が十字架で虐殺されます。結局、これは同じ死を死んだのではないかと思います。権力者の横暴によって人間性を踏みにじられているからです。
「生き延びた者(a survivor)」には独特の罪責感があると言われます。隣のあの人が死んで、なぜわたしが生きているのか、そのことに申し訳ないと考えるからです。広島・長崎・沖縄・東京大空襲の中を生き延びた人たちの多くが、そのような感情を持っています。そして震災のたびごとに繰り返される現象です。
わたしはイエスが十字架で殺されるまでそのような罪責感をもって生きていたと想像しています。それは人間の持つ良心の作用だと思います。なぜ東京ではなく福島の人がより高い線量を浴び続けなくてはいけないのか、深く考える必要があるように思います。みなさんがたはいかがでしょうか。