はじめに
20章はミリアムの死に始まりアロンの死で終わります。イスラエルの三人の指導者姉弟のうち、二人が20章の時点で死にます。末弟モーセは申命記34章で死ぬことになります。本日は特にミリアムの人生に焦点を合わせ、引き続く物語を読んでいきます。その際の鍵語は地名「カデシュ」(1節)です。カデシュという言葉には「聖い」「聖とする」という意味があります(12・13節)。ミリアムという人と、「聖(汚れ/世俗の反対語)」ということとはどのように関係しているのでしょうか。
1 そしてイスラエルの息子たち・すべての会衆は最初の月にツィンの荒野(に)来た。そしてその民はカデシュの中に住んだ。そしてミリアムはそこで死んだ。そして彼女はそこで葬られた。 2 そして水がその会衆のために生じなかった。そして彼らはモーセに接してまたアロンに接して集まり合った。 3 そしてその民はモーセと共に論じた。そして彼らは言った。曰く、「そして私たちは死ねば良かった、私たちの兄弟がヤハウェの面前で死んだ時に。 4 そしてなぜ貴男らはヤハウェの会衆をこの荒野に向かって来させたのか。わたしたちとわたしたちの動物とがそこで死ぬために。 5 そしてなぜ貴男らはわたしたちをエジプトから上らせたのか。わたしたちをこの悪い場所に向かって来させるために。(ここは)種子と無花果と葡萄と柘榴の場所ではない。そして飲むための水がない。」 6 そしてモーセとアロンはその集会の面前から会見の天幕の入り口に向かって来た。そして彼らは彼らの顔に向かって落ちた。そしてヤハウェの栄光が彼らに向かって見られた。
ミリアムの人生
ミリアムはアロンやモーセ(アロンの三歳下の弟)とは年の離れた姉のようです。モーセが0歳児の時に、彼女はエジプトの王女と対等に渡り合う交渉をし、相手を説得しています(出エジプト記2章4節以下)。次にミリアムは出エジプトの際に讃美歌を歌った礼拝指導者として登場します(同15章20節以下)。彼女も「預言者」の称号を持っています。礼拝共同体であるイスラエルにおいて、ミリアムが、モーセ(裁判官・預言者)、アロン(大祭司・預言者)と並ぶ指導者であったことが分かります。
ミリアムはモーセの悪い行いを正当に批判できる人物でした(民数記12章1節)。そして彼女はツァラアトという皮膚病に罹っていました。現代のハンセン病をも含む病気です。12章のところで申し上げた通り、ミリアムがこの病気から完治したかどうかは分かりません。民は隔離された彼女の帰りを待ちます。彼女には篤い人望がありました。そして民は治っていないかもしれない彼女と共に荒野の旅を続け、彼女の作った讃美歌を歌いながら礼拝をします。ツァラアトに罹っている者は「宗教的な意味で汚れている」とされていたにもかかわらず、汚れを引き受けて看病しつづける人々がおり、全体としての「会衆」(4節)・「集会」(6節)が彼女を預言者として立て続けたのです。
汚れているとみなされ続けているミリアムが、カデシュ(「聖い」の意)という場所で死に、その場所に葬られたことは、ミリアムの名誉が回復されたということを意味するのでしょう。世俗の権力と交渉して赤ん坊の生命を救い、神のみをほめたたえ、組織内の高慢な権力者を自由に批判する、弟であろうと容赦しない、この生き方が「聖い」のです。女性であること、特定の病気に罹っていること、これらは人間を貶める理由になりません。
モーセとアロンに対する批判
本日の箇所はモーセとアロンが民に批判され、神の指導を受け、その指導通りに動かず神に裁かれる場面です。ミリアムが「聖い」とされたことを模範とすると、アロンとモーセはどのような意味で罪/罰に価するのでしょうか。そのような見渡しで物語を見てみましょう。
ミリアムを親切にみとった人々は、ミリアムの遺体に触り、ミリアムを土に埋めました。この遺体に触ることは19章に定められた「七日の間汚れる」行為です(19章11節)。この汚れから清められるためには、赤い雌牛を燃やし尽くした灰と水を混ぜたものを振りかけられなくてはいけません。しかし、ここは荒野です。赤い雌牛を燃やすことができても、水を手に入れることが困難です。こうなると敬愛する預言者ミリアムの埋葬をした人々はずっと汚れたままになります。何とも不合理です。
「水がその会衆のために生じなかった」(2節)ことは、ミリアムの葬儀の後に熾烈になっています。きっかけは清めの水がないという問題、それゆえに民全体が出発できないという事態だったのではないでしょうか。清めの水が作れないことは困ったことだ。病気のミリアムを看病し最後までみとり丁寧に葬った人々を置いて旅することなどできはしない。いや、そもそも「飲むための水がない」(5節)ことも困った事態だ。責任をミリアム以外の生きている指導者たちに問おう。「なぜ貴男らはヤハウェの会衆をこの荒野に向かって来させたのか」(4節)
民の批判には一理があります。きれい/きたない、聖/汚れを定めた律法によってミリアムは苦しめられ、民も身動きができなくなり、渇きを覚えているからです。すごすごと帰るモーセとアロンの前に、ヤハウェの神が現れます。
7 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 8 「貴男はその杖を取れ。そして貴男と貴男の兄弟アロンが、貴男こそがその会衆を集めよ。そして貴男らは彼らの目にその岩に向かって語れ。そうすれば彼は彼の水を与える。そうすれば貴男らは彼らのために水(を)その岩から出させる。そうすれば貴男はその会衆にまた彼らの動物に飲ませる。」 9 そしてモーセはその杖をヤハウェの面前から取った。彼が彼に命じた通りに。 10 そしてモーセとアロンとはその集会をその岩の面に向かって集めた。そして彼は彼らに言った。「どうか抗っている貴男らは聞いてくれ。この岩からなのだろうか。わたしたちが貴男らのために水(を)出させるべきなのは。」 11 そしてモーセは彼の手を挙げた。そして彼はその岩を彼の杖で二回打った。そして多くの水が出た。そしてその会衆と彼らの動物は飲んだ。
ヤハウェの言葉とモーセとアロンの行動
ヤハウェはモーセに彼の杖を持参すること、そしてモーセとアロンが民を集めること、また二人が岩に語りかけることを命じました(8節)。「そうすれば彼〔岩〕は彼〔岩〕の水を与える」(8節)。この後の二人の行動は、ヤハウェの言葉と微妙に異なります。モーセは杖を持参し、二人は集会を集めます(9-10節)。ここまでは命令どおりです。しかし、ここで二人は岩に語りかけません。モーセ(10節「彼」)だけが民に向かって語りかけます。この時点で、ヤハウェの言葉通りではありません。また発言の内容も、モーセの高慢さが鼻につく言い方です。「あなたたちごときのために、立派なわたしたちほどの者たちが、この岩から水を出させてあげようか」。そしてモーセは岩を杖で二回打ちます(11節)。岩を杖で打つ行為をヤハウェは命じていません。ヤハウェは「岩」を擬人化し、人間のように扱っていました。「あなたたちは岩に頼みなさい。そうすれば岩が岩の持っている水を民全体に(あなたたちも含むイスラエルに)与えてくれる」。モーセにとって岩は、単なる物であり手段にしか過ぎません。ロバを三回打つバラムという人物に少し似ています(22章22節以下)。岩を暴力的に屈従させ水を出させる行動は聖くないのです。
12 そしてヤハウェはモーセに向かってまたアロンに向かって言った。「貴男らは、イスラエルの息子たちの目にわたしを聖とするために、わたしを信じなかったので、それだから貴男らは、わたしが彼らのために与えた地に向かって、この集会を来させない。 13 これらがメリバの水。イスラエルの息子たちはヤハウェと論争した(メリバの水)。そして彼は彼らの中で聖とされた。」
ヤハウェの裁き
ヤハウェは自分の助言通りに動かないで、民もその他の被造物も高圧的暴力的に支配し、神に栄光を帰さないモーセとアロンとを裁きます。二人が約束の地に入れないことは、すでに決定していることでした。ヨシュアとカレブ以外、二十歳以上の人は入れないのです(14章29-30節)。ここでの問題は指導者としての資質です。「貴男らは、わたしが彼らのために与えた地に向かって、この集会を来させない」(12節)。約束の地に向かって民を導くのにふさわしくないという裁きがここで下されています。
礼拝共同体・信仰共同体の指導者の資質は、結局一つだけだと思います。それは「わたし〔神〕を聖とするために」(12節)常に働くことです。言い換えれば、指導者は自己絶対化を避けるということです。神だけが聖なる存在であり、それ以外はすべて絶対的な正しさや聖さを持っていないのです。会衆にそのことを伝え続けることで、指導者は自分の信仰をあらわします。つまり、己の力を頼り見せびらかすアロンとモーセは、「わたし〔神〕を信じなかった」(12節)のです。
二人に指導者失格という裁きを下すことで、「彼〔神〕は彼ら〔集会〕の中で聖とされた」(13節)。神は論争する民に水を与えています。清めの水も、飲むための水も与えています。神は民を裁かず指導者たちを裁いています。このことは、律法のおかしな点を訴える民の正しさを神が認め、自らを肥大化させているモーセとアロンの間違えを神が認めないということなのでしょう。この時礼拝共同体は、神のみが絶対であり聖なる方であることを信じました。そして会衆は「聖い/汚れ」の二分法に苦しみながら死んだミリアム、高ぶる指導者を批判しながら生きたミリアムを記念し、ミリアムのように賛美します。「主に向かって歌え。主こそ神。主のみが王。聖なる方はあなたのみ」。
今日の小さな生き方の提案
ミリアムに倣いましょう。わたしたちの口・言葉は何のためにあるのでしょうか。低くされている者を高くするため、真に高い神を高めて賛美するため、神であるかのように高ぶる者を低くするため、この三つの行為のために、わたしたちは言葉を用いるべきです。庇うこと・褒めること・批判することです。それにより神のみが聖・絶対であり、わたしたちがただの人・土くれとして平等であることが示されます。そのような礼拝共同体を形成しましょう。