今週の一言 2013年5月23日

5/23の祈り会ではホセア書10章1-8節を学びました。

 ホセアはモーセ・アロン・ミリアムに率いられた十二部族による荒れ野の移住生活を理想としています(前13世紀)。なぜでしょうか。

 一つの理由は荒れ野には人間の王がいないということです。民の指導者だったモーセらでさえ王ではなく預言者・祭司でした。言い方を変えると、主という神のみがイスラエルの王として君臨し、それ以外の人々はみな平等の関係だったということです。王制前の十二部族によって成る社会とは、水平な「分節社会」(各部族の自治を認めゆるやかな連帯を保つ社会)です。

 二つ目に、荒れ野の移住生活には不動産の取得がないということです。土地や建物を自分のものにすることができません。巨大な設置物も作ることができません。持ち運びに不便だからです。第一の理由と関連して、荒れ野の移住生活は礼拝の方法を規定します。高い場所そのものを拝んだり、大きな礼拝施設をありがたがったり、崇拝の対象となる巨大な象徴物を用いて礼拝することが、イスラエルにとっては異質なものとなります。

 ホセアはこの荒れ野時代の理想から現実の北イスラエル王国を批判します(前8世紀)。北イスラエル王国には建国当初から、国の各地に「聖なる高台」(礼拝に用いられた小高い丘)と神殿があり、特にベテル(ベト・アベン)とダンという町には「金の子牛」が崇拝対象として設置されていました(王上12:28以下)。また、「聖なる柱」は金の子牛の配偶神であり、五穀豊穣の神として拝まれていました。

 ホセアは「ベテル(神の家=神殿の意)」という地名を、あえて「ベト・アベン(罪の家)」と名付け、激しく批判します。見えるものに頼ることは霊である神を礼拝することと正反対の事態です。神に仕えていないので、それは富に仕える行為・拝金主義・経済至上主義です。

 また「王はいない」とうそぶく民は真の王としての神を捨て、人間の男性である王を頂点とするピラミッド型社会をかたちづくっています。そこにおいて王は擬似神となり、国内においては経済的弱者への抑圧、国外においては軍事的弱者への侵略と強者への臣従が起こります。戦前・戦後を貫く日本社会の問題性と重なります。バプテスト教会が必要とされるゆえんです。(JK)