3月27日の祈り会ではエゼキエル書33章10-11節を学びました。
「わたしたちはどのように生きるべきか」(10節)。前598年以来捕囚下に生き、前587年に母国の完全なる滅亡を聞いたユダヤの民の問いは深刻なものでした。預言者エゼキエルは、「あなたたちはいのちの主に立ち帰りなさい、そして生きなさい」と答えます(11節)。
エゼキエルの語る「立ち帰り=悔い改め」の内容は、バビロン捕囚の時期に由来する二つの大きな宗教現象から推測されます。一つは『モーセ五書』(創世記から申命記までの一続きの物語)の編纂であり、もう一つは国家儀礼から離れた会堂での毎週の礼拝です。そして安息日ごとにモーセ五書が朗読され、それに基づいて礼拝が行われたのでした。この意味では、二つは一つの現象です。
いのちの主に立ち帰ることは、正典を編纂して、神の言葉にのみ頼る信仰を確立することです。正典とは、どの時代・どの地域でも信者にとって意味のある言葉として信頼を得ている文書のことです。このような考えそのものが人類史上初の「発明=啓示」でした。この正典信仰により、ユダヤの民はエルサレム神殿やダビデ王朝など神ならざるものを頼る偶像崇拝から解放されました。
今あるモーセ五書はモザイク模様の本です。少なくとも四つの思想集団の手になると言われます。いわゆる「ユダヤ教」は昔も今も一枚岩ではありません。その多様性を認めたうえで、協力して一冊の本を編纂したのでしょう。その指導者の一人がエゼキエルであったと考えられます。彼は正典化運動の立役者です。
正典は礼拝の中で朗読されるために編纂されました。一年サイクルで創世記の冒頭から申命記の最後までたどり着きます。毎年冒頭に「混沌状況への希望の光」があることを共に確認し、毎年の終わりに「約束の地を望み見つつそこには入れなかったモーセ」を通して、いつか約束の地に帰還する希望を共に固くしていくのです。こうして民は希望を持って生きるようになります。
エゼキエルは捕囚の地で、預言者たちの叫んだ「立ち帰り」、申命記改革の担い手たちが企画した「立ち帰り」計画を、実際にかたちにした人物です。彼の創設した信仰共同体のあり方をキリスト教会も継承しています。(JK)