4月17日の祈り会ではエゼキエル書43章1-9節を学びました。
キリストの復活という視点からエゼキエル書を読み解いてみましょう。エゼキエル書の40-42章には「神殿再建の幻」が描かれています。この神殿は実際の建築物ではありません。現実の設計図ではなく理想の「神の住まい」です。
エゼキエルはどんなに巨大な建築物の中にも神は入りきらないし、常に特定の建物に神が居るとは限らないと考えます。神は捉えがたい自由な霊です。それを現しているのが移動可能な「主の栄光(神の臨在を示す婉曲表現)」という名詞であり、「住む(原意は「移住する/宿る」)」という動詞です。これは新しい神学でした。神殿崩壊と同時に神は死んだように見えて、実は死んでいない、生ける霊である神は自由自在に宿りたいところに居るのだし、希望をもって神を礼拝する民の真ん中に復活するのです。礼拝する民=神の家という信仰です。
ガリラヤの地を、イエスを真ん中において旅する人々は、この意味における神の家を形成していました(マコ3:31以下)。キリスト教会も「復活の主を礼拝しつつ地上を旅する神の民」という観念を継承しました。
さて、イエスは自分のからだを神殿に喩えました(ヨハ2:19以下)。聖霊によって生まれ聖霊に満たされて活動したイエスのうちに神は宿っておりました。イエスの十字架刑死は神殿崩壊に似ています。その出来事は一つの物語の終わりであり、別の物語の始まりでした。崩壊した肉体はよみがえらされて「霊のからだ」として再建され、イエスは地上から去り信者に聖霊を配ったからです。
パウロはキリスト信者一人一人が霊である神の神殿であると語りました(Ⅰコリ6:19)。巨大な建築物の中にも収まりえない霊なる神が、この世で小さくされている一人ひとりの中に宿っていると信じました。キリスト信者がキリストに似た「生けるいのち」となるはずという信仰のゆえです。上記イエスの持つ「からだ理解」をパウロなりに発展させたわけです。
こうして復活のイエス・キリストは礼拝する民の真ん中に居ます。と同時に個々人の中に居ます。そして希望をわたしたちに与え続けます。その希望は小さなわたしたちからあふれ出し、生ける水となって世界を満たすのです。(JK)