【はじめに】
前回までの話は、イエスがヨハネからバプテスマを受けた後、誰もいない荒野に行き、一人で祈り断食し誘惑を受けたというものでした。イエス誕生から、その活動の開始までの数十年間は謎に包まれています。マタイ福音書においてはベツレヘムで生まれた後、エジプトへと亡命し3年ほど過ごしてからナザレに戻ったと言われています(2章)。そうであっても紀元前1年ごろから紀元後30年ごろまでのイエスがどのような人生を過ごしたのかは謎です。彼の思想はどのようにして熟していったのでしょうか。
おそらく当時のユダヤ教諸派のうちのサドカイ派批判を基礎にして、ファリサイ派やエッセネ派やゼロタイ派などからの影響を受けながら、自らの宗教思想と生き方を定めていったと推測されます。最も影響を与えた人物はヨハネです。とは言え、イエスは独自路線を生みだします。荒野において一人となったということは、イエスにしかない独特の境地にたどり着いたということを意味しているのでしょう。それが「神の支配運動」です。もし神が人間社会に来たならば何をするだろうか、どのような集団・社会を起こすだろうか。
本日の箇所は、「神の支配運動」における最初の活動を記しています。
12 さてヨハネが引き渡されたということを聞いた後、彼はそのガリラヤの中へと去った。 13 そしてそのナザレを棄てた後、カファルナウムの中へと来た後、彼は住んだ。それはゼブルンとナフタリの諸地域の中の湖沿いなのだが。
【ヨハネの逮捕】
ユダヤ地方のヨルダン川沿いで浸礼運動(全身を川の水で浸らせて、人生の方向転換をさせるという宗教実践)をしていたヨハネは、政治権力に対しても批判的な発言をする人物でした。ヨハネはガリラヤ地方の領主ヘロデが自分の兄弟の妻と不倫したことを公然と批判しました。そこで領主ヘロデの牢屋の中へと「ヨハネが引き渡された」(12節)のでした(14章3-4節参照)。
ヨハネ逮捕の噂を聞いて、イエスは活動を開始します。何事にもきっかけがあることでしょう。しかし、なぜこの時だったのでしょうか。理由はヨハネを引き継ぐためだと思います。ヨハネの言論は弾圧されました。政治権力への批判というものを非暴力の仕方で行う者として、イエスはこの点を引き継ぐ使命を感じたと思います。特にヨハネを逮捕した領主ヘロデを批判することを継続しなくてはいけません(マルコ8章15節)。
ヨハネを継承することは単にすべてを無批判に引き継ぐことではありません。イエスは、ヨハネの浸礼運動を継承しながら超えていきます。一般に後の者は先の者より優ります。若いというだけで優れているのです。同時代人にできない分析と反省を後代の人たちはたやすくできます。ヨハネのように川沿いで人々を待つのではなく、イエスは人々の住んでいる地域の中へと入って行き、積極的に人々と交流をしながら町の中で新しい集団を生み出していきました。「ガリラヤ」地方に去り、故郷の寒村「ナザレ」を後にして、「カファルナウム」という、より大きな町に定住することにしたのです。
新共同訳聖書の巻末にある地図集「6 新約時代のパレスチナ」をご覧ください。ガリラヤ湖が北にありそこから南にヨルダン川が流れ死海に注ぎます。死海の西側にエルサレムやベツレヘムがあり、ガリラヤ湖の西側にナザレとカファルナウムがあります。そしてガリラヤ湖の西側一帯がガリラヤ地方と言います。かつてイスラエルに十二の部族があり、ガリラヤ地方はかつての「ゼブルン」部族と「ナフタリ」部族の領土だった地域とおおよそ重なります。2ページ前の「4 統一王国時代」もご覧くださると分かると思います。これらの地図が有用です。人生もまた時に鳥瞰することが有用です。
もう一度3章からのイエスの経路を振り返ってなぞります。イエスはヨハネから浸礼を受けるために故郷ナザレから死海のあたりまで旅をし、浸礼を受けた後(3章)、ガリラヤ湖と死海の間のどこかにある「荒野」で四十日を過ごし、ユダヤ地方からガリラヤ地方へと逮捕護送されるヨハネの噂を聞き、ヨハネを追うようにしてガリラヤのナザレに戻り、故郷を棄ててカファルナウムに移住をしました。これが初めの一歩です。母マリアや弟妹たちと短く挨拶をするために、荒野からナザレに帰り決然とイエスはカファルナウムにただ一人向かいます。ナザレとカファルナウムの間は直線距離にして40km、道のりにして60kmほどと言われます。古代の人はすべて徒歩で移動をします。二日ほどの道のりでしょうか。後戻りできない旅を、山間の寒村ナザレから、湖畔の大きな町カファルナウムへと一人下っていきます。その心境はいかに。
家族はイエスがヨハネのところに行くことも反対したでしょうし、さらにヨハネ逮捕後にイエスが独自の活動を開始することにも反対したと思います(12章46-50節。マルコ3章21節も参照)。よく知った家族をも振り捨て、イエスは知らない人々と共に新しい集団・交わりを創るために、知らない町カファルナウムへと行くのです。人生には自分で決めた道を、周囲から反対されたとしても選ぶ場面があります。大変ですが、独特の祝福があります。イエスに倣うというやりがいです。
14 その結果その預言者イザヤを通して言われたことが満たされた。曰く、 15 ゼブルンの地とナフタリの地は、そのヨルダン(川)を超えた海の道を、その諸民族のガリラヤは、 16 闇の中に座っているその民は、大いなる光を見た。そして死と陰の地の中に座っている者たちに、彼らのために光が昇った。
【ガリラヤとは】
マタイ福音書を編纂したクリスチャンたちは、イエスがなぜガリラヤ地方を選んだのかを考えました。そして旧約聖書の「預言者イザヤ」によって書かれたイザヤ書8章23節-9章1節の預言が実現するためだったと理解し、それを信じました。マタイ福音書における六番目の「定型引用」です。しかもこの個所の引用の仕方は、かなり自由です。ヘブル語原典からも、ギリシャ語訳旧約聖書からも、かなり離れた独自の言葉で(強力な解釈でもって)イザヤ書を「引用」しています。
その特徴は、「海の道」(15節)と「大いなる光」(16節)が同じ意味になるように、同じ助詞「を」(対格)を用いているところにあります。大いなる光は当然イエス・キリストのことを指します。海の道もまたキリストと同一視されていることが驚きです。「そのヨルダン(川)を超えた海の道」をどのように理解しましょう。ここで先ほど確認した、イエスの歩いた道、特に湖畔の町カファルナウムに至る決意の道を思い起こします。ヨセフとマリアはナザレからベツレヘムへヨルダン川を二回越えて辿り着き、さらにヨセフとマリアと子どものイエスはエジプトからヨルダン川を越えてナザレへ至りました。成人イエスはヨルダン川を何回も越えてヨハネに会い、彼と別れ、彼を追い、彼を超えるべくナザレから海/湖へと至った道です。この道のり(過程)そのものが大いなる光です。岐路にあって自分で選んだ道だからです。
マタイ教会の「引用」のもう一つの特徴は、ガリラヤの民の描写です。「闇」「死と陰の地の中に」ガリラヤ民衆は「座っている」というのです。前へと歩けない人々。絶望のあまり立ち上がれずうずくまっている人々を、マタイ福音書は描いています。このような人々こそ、真っ先に大いなる光を見るべきなのです。イエス・キリストと、彼の歩いた道を見て、立ち上がる力を受けるべきは、今立ち上がれないでいる人々です。クリスマスの夜、ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いは同種類の絶望の中で闇の中うずくまり座り続けていたと思います。その彼ら彼女たちを主の栄光が照らします。その彼ら彼女たちにとって、飼葉桶は輝いて見えたはずです。キリストは彼ら彼女たちのために生まれたからです。同じように「ゼブルンの地とナフタリの地は」・「ガリラヤは」・「座っているその民は」特権的に選ばれて、大いなる光を見たのです。「彼らのために光が昇った」からです。
17 その時からそのイエスは告知することと言うことを始めた。あなたたちは悔い改めよ。というのもその諸々の天の支配は近づいたままだからだ。
【イエスの宣教】
マタイ福音書によれば、17節の言葉はヨハネの言葉です(3章2節)。ヨハネが創出した言葉であることは史実だと思います。しかしそのままイエスが踏襲したとは考えられません。マタイが参考にした、より古いマルコ福音書によれば、史実のイエスはヨハネから継承したこの言葉を一部変えて、ヨハネを乗り越えました。イエスは、ヨハネが用いた婉曲表現「その諸々の天の支配」という言葉を、「神の支配」と変えました(マルコ1章15節)。そしてイエスは祈りの中で、神を直接に「アッバ(お父ちゃん)」と幼児語で親しく呼んだのです(同14章36節)。これらの言葉づかいは、当時のユダヤ教正統から神冒涜と異端視されうる革命的な言葉づかいでした。
「諸々の天という言い方では、神は遠い存在になる。近づいたといわれてもピンと来ない。形容矛盾だ。神の支配、神の意思を体現する交わりが真に近づいたのならば、神が近い存在だと言わなくてはならない。神は乳幼児と保護者の近さでもって、わたしたちと共にいる。子どもこそ神の支配に真っ先に入る。神と子どもを真ん中において、互いに給仕をする交わりが神の支配だ。」
この福音を携えてイエスは見ず知らずの人々と共に食卓を囲むためにカファルナウムに来ました。社会の片隅に置かれ、肩身の狭い思いを強いられ、うずくまって立ち上がれない人々にパンを差し出すために、カファルナウムを拠点にしてガリラヤ中を歩き回るのです。「悔い改めよう。生き方や考え方を転換しよう。神があなたに近づき仕えているのだから。この福音を信じよう。」
【今日の小さな生き方の提案】
人生は苦労の連続です。立ち上がることも前に歩き始めることもできないでうずくまっているわたしたちに、イエス・キリストが近づいて、何も言わずに隣に座っていることに気づきたいと願います。虫の目をもって近づいたままの大いなる光を見ましょう。あるいは今までの人生の歩みを、鳥の目をもって振り返ってみましょう。何度もヨルダン川を越え渡るような経験をしてきたのではないでしょうか。何かを選びとった光の粒が、遠くから星座のように見えないでしょうか。点と点を結ぶと大いなる光の星座が浮かび上がります。その光を見て明日から生き直しましょう。