今日の聖書は6月の暗唱聖句です。これはイエスの子ども時代を記す数少ない話の結びです。この箇所から「知恵が増す」とはどういうことかを考えたいと思います。
「日本の教育は知識偏重である」という批判は前からなされていました。知識の「詰め込み型」や、それに絡めての「指示待ち児童」の問題など論じられました。そこで、総合の時間などを取り入れ、生活力を身につけさせようと、「ゆとり教育」が導入されました。ところが、「学力低下」がどこからか指摘されるとまた授業数を増やすようにする。とまあ、ざっと見ただけでも定見が無い教育政策の移り変わりです。
教育とは何かということが課題です。その目的は「人格の完成」です(教育基本法)。その人らしさが作られていく過程が教育です。自分の頭で考えて、自分を自分らしく表現して、相手の意見も聞いて、相手らしさも受けいれる、そして社会の一員となっていくのです。それを集団生活の中で身につけるように促すことが幼稚園・学校の仕事でしょう。
その人らしさが作られていく過程を、知恵が増していくと聖書は表現しています。イエスはすべての子どものモデルケースだからです。では知恵が増すとは具体的に何なのかが問題になります。
この場面12歳の子どもであるイエスは自分の意思で集団行動から外れます。親族一同でエルサレム巡礼をした帰りに、一人だけエルサレムに三日間残ったからです。野宿をしたのか親切な人に泊めてもらったのか、ご飯もどのようにしたのか、全く分かりません。しかし自分の頭で考え、行動をし、サバイバルを生き抜いたことを聖書は「知恵が増した」と評しているのです。
「釜石の奇跡」という話をお聞きになった人も多いと思います。8年間子どもたちに津波防災教育を施した釜石市では、3・11の際に子どもたちの被災はなかったということ、さらにはもっと小さな子どもや高齢者たちをも助ける子どもたちすらいたということが奇跡の内容です。津波防災教育の大原則は、「自分で判断して逃げること」でした。
大人の言うこと(ここまでくれば安全)を鵜呑みにしない批判能力が必要です。防災マップでさえ信じないのです。そして自分の足で行動を始める行動力、さらには自分の考えを知らない人に伝えること・人を動かす実行力、とても小学生とは思えない成熟したリーダーシップを一人ひとりが持っていました。8年間の地道な教育の成果です。
このことは防災に限らないと思います。わたしたちの教育には、その場の判断や実行する意思と力を育てるという内容が必要だと思います。危機の時だけではなく普段からそうです。いづみの保育の一つの特徴は体験型であり、園の外に行くことが多いというものです(名栗保育・雪の保育も)。本物の社会に触れ、常に本番の判断ができる知恵が増すことを願ってのことです。大人も子どももこの意味の成長をしたいものです。お祈りします。