3月4日の聖書のいづみではマタイによる福音書6:5-8を学びました。「偽善者たちシリーズ」(6:1-18)の第二回目、「祈り」についてです。
「祈る」という言葉はギリシャ語でプロスエウコマイという動詞です。この言葉をさらに分析すると、前置詞プロス(~に向かって)がエウコマイ(祈願する)という動詞の冒頭に接続されて成っています。この接続により若干の強調/意味の限定がなされています。「祈る対象や方向性が大切だ」という含みです。そこから「祈りは専ら神へと向かうべき」という解釈が導かれます。
ギリシャ語プロスエウコマイは、ヘブライ語ナファル(落ちる)やパラル(異議申し立てをする)という動詞の訳語です。これらの動詞を「再帰談話態」に活用し、自分自身に対する動作とする時に「祈る」という意味となります。ヘブライ語話者にとって祈りは、「自らを地面に落として砕く」動作であり、「自らに対して異議申し立てを行う」動作なのです。「祈りは自分自身への作用」という含みです。
イエスは「アッバ(「お父ちゃん」の意)である神が、わたしたちの祈る前からわたしたちの願いをすでにご存知である」と言います。この素直な信頼こそ祈りの大前提です。素直な信頼は、祈る方向と祈りの作用を規定します。他人を見たり他人に見られたりするためでもなく、また、他人に聞かせ他人を支配するためでもなく、信仰者はただ神に向けて祈り、自らの自我を砕くために祈るべきです。
教会において人前で祈る場面がありえますが、上記のような本質を抑えた上で方法と目的を間違えないようにして「くどくどと祈らない」必要があるでしょう。逆に上記本質に基づく祈りは、人々の感動と共感を誘い「アーメン、そのとおり」という心からの相槌を打たせるものです。
イエスが警告する偽善、すなわち「宗教的良き行為が重大な倫理的悪行に成り下がってしまう場合」が現代においても当然ありえます。他人の祈りの途中で「異議有り」と口を挟むことは難しいし、何となく最後に「アーメン」と唱和せざるを得ない状況に置かれるからです。たとえば、「人権侵害」や「名誉毀損」「自分とは利害の反する意見の表明」が祈りに含まれていたらどうでしょうか。
祈りの方向と、祈りの作用について、信仰を持っているがゆえに吟味し身を正したいと思います。 JK