1/13今週の一言

1月13日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章14-17節を学びました。イエスの弟子たちが罪人たちとの食事を積極的にし、修行としての断食をしない理由についてイエスが答えます。曰く「婚宴の席に断食はふさわしくない」、また「新しいぶどう酒/布切れに、古い革袋/布はふさわしくない」。なお、同じ物語はマルコ福音書2章18-22節とルカ福音書5章33-39節にも収められています。マタイは直前の物語を含め、マルコ2章1-22節を丸ごと、みずからの福音書の9章1-17節に移動したのです。

マルコとの比較の中でマタイの強調点が浮かび上がります。マタイは「山上の説教」という長大な説話集(5-7章)の後に、9章を置きます。その中に、「断食についての教え」を載せています(6章16-18節)。「他人に自分の善行をみせびらかすことは、たとえ宗教的修行の一種であっても偽善となる」という例示の中に、断食が挙げられているのです。断食をする時には偽善とならないように注意が必要です。

偽善としての断食に批判的という見解が、マタイにのみある「悲しむ」(15節)という単語の使い方に影響を与えています。「偽善ではなく、自然な感情の表出として断食をすることは構わない」という示唆です。花婿イエスが、十字架で処刑された後、弟子たちは食事も喉を通らないほどに悲しんだと推測します。これこそ自然な断食です。だからこそ、復活のイエスとの朝食はこの上ない喜びとなったのでしょう。

17節の末尾に「そうすれば、両方とも長もちする」という一文をマタイは付け加えます。この言い方は、「古い革袋に古い葡萄酒を入れる」という組み合わせと、「古い布に古い布切れをあてる」という組み合わせを、否定していません。古い革袋であるヨハネ宗団が、古い葡萄酒である断食を修行として行っても構わないという、優しい主張です。

マルコはイエスの新しさを強調し、「新しい行いへと急進的に悔い改めよ(生き方の方向転換)」と主張しているように思えます。それに対して、マタイの筆致にはいわゆる「守旧派」への配慮がにじみ出ています。それは、断食をする時の注意を語るという態度、つまり断食行為を全否定しないという態度とも重なるものです。

保守というものは、課題に対して八方に目を配ってゆっくり改善の努力をする集団です。昨今の改憲潮流の担い手が、決して保守的ではなく急進的であることに危惧を覚えます。壊憲が危ぶまれるゆえんです。 JK