1月20日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章18-26節を学びました。なお、同じ物語はマルコ福音書5章21-43節とルカ福音書8章40-56節にも収められています。この場合、最古の福音書であるマルコの物語を、マタイとルカが踏襲したと考えられます。
マルコが23節分の分量で記す物語を、マタイは9節分に圧縮しています(約5分の2)。著しい縮小・編集により、この物語はかなり改変され、もはや新しい主張を述べる「創作」の域に達しています。
物語はサンドイッチ構造です。①病気の娘のいやしを要請する父親⇒ ②父親宅へ向かう途上に婦人病の女性のいやし⇒ ③父親宅にて病死した娘のいやしという流れです。マタイは、周りの登場人物を著しく減らし、イエスも含めやりとりのセリフを大幅に省きます。換言すれば、劇的効果を極端に削ぎ落としています。
たとえば、マルコにおいては①の段階で、いまだ死んでいない娘が(そしてそれゆえに、読者は娘が死ぬかもしれないという緊張感を持って物語を読み進めるのですが)、マタイ版では娘がすでに死んでいます(18節)。マタイは必然的結論を先に出しています。この物語は「イエスによる死者の蘇生物語であるべき」なのです。
マタイはイエスの人間性(不完全さ)を示唆するような記述も削ります。服の裾を触った女性が誰であるのか、マルコ版のイエスは知りません。マタイは「人の子イエス」よりも、唯一無比の「神の子イエス」を前に出します。
婦人病の女性に対して、マタイ版のイエスだけ「元気になりなさい」(22節)という言葉かけをします。このサルセオーというギリシャ語単語は、新約聖書においてイエスからの命令でしか登場しません(マルコ6章50節//マタイ14章27節の「安心しなさい」、ヨハネ16章33節の「勇気を出しなさい」)。
マタイやマタイの教会では、「神(上)からの垂直な言葉かけによって人は新生する」という信仰を共有していたのでしょう。この真理は、「あなたの信があなたを救った」(22節)という、もう一方の真理を別の角度から言い表しています。神は、下からの叫びに共感し、降りて行って救い出す方です(出エジプト記3章7-8節)。一匹の迷う羊のために寄り道を厭わない方です(マタイ18章12-14節)。わたしたち一人ひとりは、救い主を寄り道へと揺り動かす魂の叫びによって救われます。
それと同時に、その不思議な寄り道・小道は、振り返ってよくよく考えてみると、神が主導する「必然の幹線道路」でもあります。救いは「あなたの家に泊まらねばならない」という神の必然でもあります(ルカ19章5節)。 JK