聖書の「原本」は未だ発掘されていません。旧約聖書に関しては紀元後11世紀の写本を基に(レニングラード写本)、また新約聖書に関しては紀元後4世紀の写本を基に翻訳がなされています(バチカン写本)。今も考古学の発掘努力と写本学による研究分析がなされ、基となる写本以上に良質の部分が発見されるたびに、聖書本文は微調整され続けています。この営みを「本文批評」と呼びます。
旧約に限って言えば、大まかに写本には三つの「家系」があります。①後70年以降のユダヤ教正統型(マソラ型。上述レニングラード写本も)、②後70年以前のユダヤ教型(上述バチカン写本旧約部分も)、③サマリア教団型(五書のみ)の三つです。聖書学史上20世紀最大の発掘とされる「死海写本」の発見によって、上記の三つの家系の存在が実証されたのでした。具体的に言えば、個別の箇所において別の言葉(異読)が記されていることがあるということです。
三つの家系を突き合わせて最古最良の本文≒原本を復元することも重要です。しかし今ある異読を尊重することも教会にとっては重要な態度です。異読は本文に対する応答として生まれるからです。自分たちの信仰共同体にとって、受容困難な記事を緩和させたり、時代状況に合わせた解釈を施すために付加したりすることで、聖書本文は豊かに成長したとも言えるのです。「説教」「聖書研究」なるものは、信仰の先輩たちの異読を生み出す精神性と通底しています。
出エジプト記1:21後半の①型と③型は、「彼は彼らのために家々を造った」とし、②型は「彼らは彼ら自身のために家々を造った」としています。前者の場合、主語「彼は」は神です。しかし、後者の場合の主語「彼らは」は ヘブライの人々を指すことになります。恐らく後者が元来の本文です。前者は「彼女らのために」としていない点でヘブライ語文法上不自然だからです。この違いは神理解の違いともなるので重要です。前者は「因果応報の神」という観念を持ち出すための修正によって生まれた異読だと推測します。
助産師が神を畏れたことに対して神の報いがあったと考えるのか(前者の立場)、それとも、助産師が神を畏れたことは、神の報いの有る無しと関係のない行為であり、ヘブライの民の新しい行為を促す出来事と考えるのか(後者の立場)、読者は種々の異読を前に決断を迫られます。JK