1月27日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章27-31節を学びました。目の見えない人がイエスの力によって見えるようになったという奇跡物語です。イエスに対する人格的信頼が、奇跡的な「治癒」をもたらすのです。
この物語は20章29-34節とそっくりです。そして20章版は、明確にマルコによる福音書10章46-52節を基にしています。つまり、最古の物語はマルコ10章版であり、それをマタイもルカも踏襲し(ルカ18章35-43節)、さらにマタイは同じ物語を別の文脈にも掲載したということです。「二重記事」とも呼びます。
マタイないしはマタイの教会は、歴史的客観事実に反して、独自の判断で同じ物語を二回記しました。そこにも積極的意義があります。福音の伝播を重視した書きぶりと言えるからです。情報はいくら分けても減りません。マタイは、「良い噂・良い知らせは、多ければ多いだけ良いだろう」という考えに立っていたのでしょう(31節)。
マタイには「癒し物語を8-9章にまとめておきたい」という編集意図もあります。マタイ福音書においては、「物語」(1-4章)・「教え」(5-7章)・「物語」(8-12章)という、まとまりが際立っています。癒し物語集は、8-12章のまとまりの中の小さなまとまりです。ここにも「歴史的客観的時系列に従う記述よりも、主題ごとにまとめて読んだほうが理解しやすい」という、編集者マタイの判断があります。
本来は福音書の後半に起こるべき出来事をその前半にも記すことによって、マタイは「ダビデの子」という熟語を頻出させ、マタイ福音書全体に散りばめました(1章1節・同20節・9章27節・12章23節・15章22節・20章30節・同31節・21章9節・同15節・22章42節・同45節、以上11回)。
ダビデという王は、イエスの時代に民族の英雄として尊敬され、民衆にその再来が待ち望まれていました(同21章9節)。ローマ帝国の支配を覆す軍事的政治的メシア待望です。マタイは1章の系図で、イエスを「ダビデの子」と呼びながらも(同1章1節)、実はダビデの血を引いていないことを明らかにします。「メシアはダビデの子ではない」という主張を、マタイはマルコから引き継いでいます(マルコ12章35-37節//マタイ22章41-46節)。ただし、一見ダビデの子でもあるかのような書きぶりなので、余計に落差が激しくなっています。
このマタイの姿勢は、「反ユダヤ主義」に由来する点に注意が必要ですが、民族主義を乗り越える視点も提示しています。 JK