10月14日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書7章24-29節を学びました。
福音書記者マタイは、7章28-29節を、マルコ1章22-23節から拝借しています。それによって、野外での「山上の説教」全体が人々の驚きの対象となります。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。
「しかしわたしは言う」とあるように、イエスは路上で主語を「わたしは」と据えて、権威ある者として語ります。その姿は、主権者として「わたしはこう考える」と路上で訴えている若者たちに重なります。
7章24-27節はルカ6章46-49節にもほとんど同じ話が収められています。おそらく元来の言葉遣いはマタイが保存していると推測されています。趣旨は明快です。イエスの言葉を聞いて行うことは岩の上に土台を据えて、「揺さぶられないで生きる」ことになるというものです(24-25節)。人生において洪水が押し寄せても、耐えうる賢い人になるのです。それに対して、イエスの言葉を聞いても行わない人は、砂の上に家を建てる愚かな人に似ていると非難されます(26-27節)。そしてここで言うイエスの言葉は、長大な「山上の説教」全体(5-7章)を指します。
津波や洪水の被害に遭った人々の気持ちを汲むと、この例え話を素直に読むことには抵抗があります。たとえば洪水被害の多いタイのキリスト者は、この箇所の被災者たちを決して「愚かな者」と非難するような解釈をしないと聞いたことがあります。同様に洪水列島に住むわたしたちの日常生活の現実が、聖句を「揺さぶる」こともあるでしょう。そのような揺さぶりは信仰生活をむしろ豊かにするものと考えたいものです。教条的になって「上から目線」で、つまり狭い了見で苦しむ者たちを切り捨てるよりは、現実の苦悩に接して「この出来事は一体何だろう」と考える方が良心的だからです。
このような「現実からの揺さぶり」を経て、さらに土台がしっかりと据えられるとも言えます。さまざまに考え合わせなくてはならないことを考え尽くして、悩み抜いて「わたしはここに立つ」という確信を得る。このような作業を経て各人の思想信条というものは確立されるからです。
聖書は古代の本です。旧約聖書はもちろんのこと、新約聖書の言葉すら現代的には素直に行うことが困難な場合がありえます。それでもなお、「この本をわたしはこう読む」として、「聞いて行う」人をキリスト者と呼びます。JK