マタイ5:17-20(新約7ページ)
山上の説教の続きです。今日は単語の説明が多いのでこんがらがらないように気をつけてください。
「律法や預言者」(17節)とあります。律法というのは専門用語です。ユダヤ教の正典(経典のこと)の第一部Torahのことです。日本語訳のキリスト教配列の旧約聖書でも、同じ位置に収められています。旧約聖書の冒頭の五巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、モーセ五書とも呼びます。五書の中の法律部分だけを「律法」と読んだり、旧約聖書全体を「律法」と読んだりするのでややこしいのですが、今日の箇所の場合はモーセ五書です。ユダヤ教徒は礼拝の中で一年かけてこの五書を全文朗読します。
「預言者」も同じく専門用語です。ユダヤ教配列による旧約聖書の第二部Nebiymのことです。巻名で言えば、ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記(以上「前の預言者」)・イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・十二小預言書(以上「後の預言者」)に当たります。ユダヤ教の礼拝では、五書の解説・参考として抜粋して用いられます。
この律法と預言者は礼拝で公式に用いられる旧約聖書の中核です。そのため「律法と預言者」という言い方で、旧約聖書全体をあらわす場合もあります。今回の「律法や預言者」も同じ意味と考えて良いでしょう。ちなみに本当の全体は第三部Kethviymを含みます。ユダヤ教徒は自らの正典を当然ながら「旧約」などと呼ばず、TaNaKと呼びます。三部それぞれの頭文字を取っているのです。
イエスはここで旧約聖書TaNaKを廃止することを望まず、むしろそれを完成させることを望んでいるようです。このことは宗教史上、面白い現象です。
正典宗教と言います。自分たちの経典を、時空を超えて普遍的に当てはまる真理として信じている宗教のことです。たとえば、昔々遥か遠くで書かれた聖書を読んで、「今、自分に語りかけられた神の言葉」と観念することです。最古の正典宗教はユダヤ教です。五書の成立と礼拝での使用と共にユダヤ教は正典宗教を創始しました(前5世紀)。その次にキリスト教(後1世紀)、さらにイスラム教です(後7世紀)。
この中でキリスト教はおそらく正典宗教を批判して成立しました。新約聖書を作ろうと思っていなかったと推測します。少なくとも最初の20年間礼拝の中で旧約聖書を解釈するというだけで十分だったのです。しかし諸般の事情でさまざまな文書を正典化していくこととなりました。だから18-19節の言葉は、生前のイエスの言葉というよりは、正典化の時代を生きるマタイ教会の発言でしょう。イエスは正典宗教の原理主義(文字信仰)を批判していたからです。戒律に縛られる生き方、隣人を縛る生き方は倒錯しています。
「文字信仰」批判は、正典宗教となった後も翻訳を認める柔軟性につながっています(ギリシャ語旧約聖書)。ユダヤ教徒はヘブライ語、イスラム教徒はアラビア語にこだわりますが、キリスト教徒だけは世界中の言葉への翻訳を推進しています。
新約聖書を生み出しつつ、キリスト教は旧約聖書も捨てないで保持しました。常に棄てようとする試みは内部にありますが、それでも保持し続けています。それは現代においては「反ユダヤ主義」を克服する試みと連動しています。旧約がユダヤ人の歴史だからです。このようなキリスト教内部の自己浄化の視点から見れば、旧約聖書に記された戒律もまた意義深いものです。「自分自身のように隣人を愛せ」(レビ19:18)という命令には普遍的な響きがあります。キリスト教は無条件の赦しを語ります。それは時に信者に悪用され、人権侵害を黙認する教えにもなりえました。どんなに悪いことをしても神は赦すのだから、悪事を行おうという開き直りです。これを「安価な恵み」の問題と呼びます。赦しは愛の掟を守る応答に繋がらない限り安っぽいものです。
マタイ福音書の「天の国」(19節・20節)は、マルコ福音書の「神の国」の言い換えです。神の国とは、イエスを中心に座る交わりであり、神の意思を行う群れのことです。死後の世界に限定されません。また、この「国」は地理的な領土とは関係がありません。原意は「支配」という意味です。人と人との関係を神が支配している時に、そこが神の国となるのです。そして、イエスによれば支配とは仕えることです。王のようにふんぞりかえることが偉いのではなく、互いに給仕をすることこそ偉いのです。神はそのような仕えるかたちで、人々をつなぎ、人々はその神にならって仕え合う、それが神の国・天の国です。仕え合うという、神への応答が愛の掟としてあることが重要です。