10/30今週の一言

10月30日の祈り会では、創世記25章27-34節を学びました。

双子のエサウとヤコブの物語は、同じヤハウィスト集団によるカインとアベルの物語を想起させます。職業や趣向の異なる二人兄弟の葛藤と相克が主題である点が似ているからです。初めての読者は弟のヤコブが兄エサウに殺されるのではないかという緊張感をもってこの後の物語を読み進めていくことになります。

イサク・リベカ夫妻は長男エサウの名付けを共にしています(25節、原文の主語は複数形)が、次男ヤコブの名付けはイサクの単独行為です(26節、原文の主語は単数形)。ここには民主的・対等な夫婦のあり方と同時に、家父長制の影響も透けて見えます。長男の名付けのみに丁寧だからです。

そのイサクがエサウのみを偏愛するので(しかも食べ物の趣味という理由)、その反射としてリベカはヤコブを愛します(リベカのヤコブへの偏愛には理由が記されていません)。「しかし、リベカはヤコブを愛した」(28節)というよりも、「だから、リベカは・・・」と解すべきでしょう。ヘブライ語の「しかし」は「そして」「そこで」なども意味しえます。イサク・リベカ夫妻は理想的な夫婦としても描かれますが、子育てに関しては葛藤を抱えていました。

「長子の権利」の内容は、おそらく他の男兄弟よりも倍の相続をするということと推測されます(申命記21:15-17。なおルカ15:11-32の「二人の息子を持つ父親の譬え」も参照のこと)。ここにも女性差別が前提されています。そして先に生まれた男性一名のみ不平等な形で優遇されていることも「下の子差別」です。

ヤコブから見れば、父イサクも次男なのにもかかわらず祖父アブラハムの遺産をすべて相続していることは、不合理に見えます。ましてや双子の場合、ほとんど同時に生まれているのですから、余計にやりきれません。ヤコブは家父長制に挑戦し、エサウから長子の権利を奪い取ることを企図し、そしてまんまと赤い豆の煮物と長子の権利の交換契約を交わすことに成功しました。その際、料理が好きで上手であるという「女らしさ」を武器にしたことが、ジェンダーの逆用として物語のスパイスになっています。

聖書はこの類の「詐欺師的英雄(小よく大を制す)」を痛快な人物として評価します。ヤコブは「穏やかな人(直訳:完全な男性)」と好意的に評価されています。全体としてヤコブは決して穏やかな性格の人物ではありません。 JK