11月11日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章18-22節を学びました。この物語はルカ福音書9章57-62節にも載せられています。ほとんど同じ内容なので、近代の聖書学者たちはマタイとルカが共有している「イエスの語録集」があったと推測します。そして、その語録集を便宜的に「Q資料(ドイツ語Quelle:資料の意に由来)」と呼んでいます(文書として発掘されていないので仮説の域を出ません)。
もう一つイエスの語録集には実際に発掘された文書があります。外典の一つ『トマスによる福音書』です(荒井献訳、講談社)。「狐には穴があり空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」という、今日の箇所の一部は(20節)、トマス福音書にも所収されています(トマス86)。この言葉が、生前のイエスに遡ることの一つの論拠です。
もともとこの言葉は、放浪生活を続けるイエスの「嘆き/つぶやき」だったのでしょう。定住せず、時に野宿をしながら旅を続けることは、極めて肉体的にも精神的にも厳しいものです。人の子イエスは、弱音を吐くこともできる神の子でした。
このつぶやきをQ資料の編集者は、「放浪の急進主義者(弟子)としての生き方の厳しさを説く」という文脈に置きました。口先だけで「どこでもイエスに付き従う」などと言うな(19節)、「父親の葬儀を全うしてから、イエスに付き従います」などと条件をつけるな(21節)、というわけです。何という厳しさ。
マタイは、Q資料を目の前に置きながら、自分の色を付け加えていきます。ルカ福音書と比較をし、ルカに無いものがマタイの脚色です。それは、ガダラ人の住む「向こう岸」に渡る直前という場面設定です。向こう岸への旅に同行した者が真の弟子たちとみなされます。
また、「ある律法学者」(19節)や「弟子の一人」(21節)という、イエスの対話相手のキャラクター作りです。律法学者は口先だけで行いが伴わない人の例として、弟子は言い訳がましい人の例として挙げられています。この両者は、7章21-29節において、すでに批判されていました。マタイにとっては、律法に精通していることも、イエスの弟子であることも救いを保証しません。イエスの言葉を行うことができるかどうかだけが試金石なのです。
編集と付加の軌跡を追うことは聖書がどのようにして雪だるま式に増えていったかを知るために有益です。その一方で最初のイエスのつぶやきも現代的な意義を持っています。わたしたちはホームレスの中にイエスを見出します。JK