11月18日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章23-27節を学びました。この物語は、マルコ福音書4章35-41節・ルカ福音書8章22-25節にも収められています。このような場合、マタイとルカが、最古のマルコ福音書を参考にしたと推測されます。マタイもルカも、マルコ福音書を目の前に置いて(さらに他の資料も机の上に並べて)、各々の福音書を編纂したのです。
わたしたちはマタイ福音書を読みすすめているので、マタイの傾向性に着目して「嵐を鎮める」物語を読み解きたいと思います。各福音書の傾向性は、相互に比較するとあぶり出されます。特に、マルコ福音書をどのように改変しているかが鍵となります。
その他の記事においてもあてはまる現象ですが、全般にマタイはマルコを圧縮する傾向にあります。この箇所でも具体的な描写がかなり省かれています。それによって、イエスと男性弟子たちの相互批判の対立関係が緩和される効果がもたらされています。たとえば、弟子の詰問「わたしたちがおぼれても構わないのか」や、イエスの叱責「まだ信仰がないのか」などのマルコの記載を、マタイは省略しています。マタイによれば、弟子たちはイエスの言葉を聞いて行っている模範生なので(18・23節)、マルコの描く、両者の激しい対立を弱めたいのです。
その流れの中に、「信仰の薄い者たち」(26節)という単語があります。マルコは弟子たちの信仰の有無を問題にしましたが、マタイは弟子たちの信仰の大小という程度問題に緩和しています。そして、この「信仰の薄い」(ギリシャ語オリゴピスティアは「信仰が小さい」の意)という形容詞は、その他の古代ギリシャ語文献には見当たらない聖書に独特な造語であり、マタイが特に愛用する単語です(6章30節、14章31節、16章8節、17章20節)。
マタイはこの単語をイエスの弟子に対してのみ用います。弟子ではない者は信仰が無い存在ですが(17章17節)、弟子には小なりといえども信仰が確実に有る存在だと考えます。この背景には、キリスト教徒に対する迫害があります。マルコと異なりマタイには、迫害下でなお耐え忍んで教会生活を続けている信者たちを、慰め励ます必要性があったのです。
教会は嵐の中の舟に似ています。世界は教会という小さな交わりを木の葉のように翻弄します。思想信条の自由に対する抑圧は恐怖の嵐です。わたしたちは小さな信仰を奮い立たせて、神の子が共に居られることに気づくべきでしょう。眠っている方は、嵐を沈めうる、神に起こされた主イエスです。JK