11/12父母の会礼拝説教

「大地は作物を実らせました。」詩編67編7節

今日の聖書は11月の暗唱聖句です。

科学技術の進歩により、クローンの動物を生まれさせることも、DNA操作をした植物からの収穫を得ることも、「野菜工場」を稼働させることも可能となっています。いわゆる生命倫理が問われる時代です。宗教の一つの社会貢献は、生命倫理に切り込むことができることにあります。「神の領域」に触れてはいけないという人間に謙虚さを要求することが、信仰の世界には存在します。そのブレーキは全体にとって益となると考えます。

キリスト教信仰は、「神がいのちの創り主」という教理を持っています。生きること・死ぬことは神の領域のことがらです。なぜ生まれ・なぜ死ぬのかの答えを人間は持っていません。「神のみぞ知る」からです。大地は作物を実らせるということは、人間の業を超えたところでいのちは生まれ育まれるということです。大地も神が創ったと観念されているからです。さらに言えば、適切な天候が与えられなければ、大地だけでも作物は実りません。そして天体も神が創り、神が雨を降らせ太陽を昇らせるとも観念されています。作物の収穫は根源的には神の恵みの賜物(ただで与えられたもの)でしかないというのが、キリスト教的世界観です。

この考えに基づくと、行き過ぎた生命のコントロールは人間の思い上がりであるという結論に行き着きます。知らないことがあって良いし、できないことがあって良いということです。人は謙虚に生きるべきです。畏れるべきものを畏れるときに、人は謙虚さを身に付けるきっかけを得ます。この場合、恐怖ではなく畏敬の意味のおそれです。いづみ幼稚園で礼拝を保育の中に採り入れている理由です。

神への畏敬が、隣人への尊重へとつながっていくことを願っています。科学技術についての思い上がりと、傲慢な態度を見過ごし黙認している世相とが、重なって見えます。子どもは大人社会の鏡です。およそ考えられないような悪態を公の場で口にする大人が大勢います。都議会や国会などの野次は、内容いかんを問わず問題です。そして内容も傲慢そのものでひどいものです。電車の中での舌打ちやいらいらした独り言の内容も、インターネット上の匿名の暴言も、テレビの残酷な笑いも、路上のヘイトスピーチも同じ線上の現象に見えます。そして子どもたちもその畏敬無き世界・尊重無き世界に生き、そこでその文化を身につけています。

普段ゆるやかに子どもたちに接するのが常のわたしですが、暴言・傲慢な態度には厳しく咎めます。相手への尊重がない傲慢な態度に思えるからです。

おしとやかになりなさいという意味ではありません。「目上を敬え」という形式の話でもありません。また、「言ってはいけない言葉リスト」などのマニュアル作りも意味がありません。「この言葉・この態度は看過できない」という倫理観を持つことをお勧めしているだけです。そして瞬発力をもって、注意する技術を共にみがきたいと願います。謙虚で堂々とした人を育てたいものです。