マタイ3:13-17(新約4ページ)
今日のお話は洗礼者ヨハネによるイエスのバプテスマについてです。まず洗礼とは何かを申し上げます。
バプテスマは入信のための通過儀礼です。具体的には、洗礼志願者が、洗礼執行者によって川などで全身を浸されることです(6節)。ギリシャ語バプティゾーという単語は浸すという意味の言葉ですから「浸礼」という方が正確に言い表しています。
浸す行為は相手を溺死させることの象徴です。これは一種の「死刑執行」です。古い生き方を殺され、新しく生まれ変わることを象徴していると言えます。この生き方の転換を「悔い改め」と言います。
ヨハネの宗団はエッセネ派の一つであろうと推測されています。エッセネ派とは、聖書には名指しで登場しませんが、当時のユダヤ教の一支流です。厳しい修道生活を勧めることで知られています。そしてこの派は洗礼という儀式を行っていたのです。当時のユダヤ教は百家争鳴、さまざまな宗派がありました。「サドカイ派」・「ファリサイ派」(7節)など。
ではイエスのバプテスマはどのような意味があるのでしょうか。イエスはヨハネに弟子入りし入信・入会の通過儀礼を行ったのでしょうか。執行者と志願者の間には一種の上下関係があるから問題となります。神の子イエスよりもヨハネという人は偉大なのでしょうか。13-14節のヨハネの戸惑いと恐縮は、上下関係を問題にするから起こります。
おそらく史実としては、イエスはヨハネの弟子となったのです。一緒に修道生活をするためにイエスは故郷をいったん離れてヨハネ門下に入りました。しかし、何かが違うと考えて分派したのでしょう。ヨハネ福音書には、イエスの最初の弟子アンデレ・匿名の一人がヨハネの弟子だったことが記されています。これは史実に基づく記載でしょう。イエスはヨハネ宗団に入った後、違和感を感じて幾人かの同調者を引き連れて分派したのです。
つまり14節以降の会話や、その後の神の霊の降臨・神の呼びかけなどは、後のキリスト教会による意味付けが色濃く反映されているということなのです。「イエスのバプテスマの意義は何か」、ただヨハネの弟子となったという史実だけでは「弱い」と考えた信者たちが一所懸命に考えて編纂した部分だと考えればすっきりします。そこに独特の意義があり、わたしたちにとっても有益な教えがあるからです。
イエスのバプテスマは、イエスの十字架刑死のたとえです。マルコ福音書10:38にはバプテスマが十字架のたとえとして用いられています。死刑執行の意味を持っていたからこそのたとえです。だから、十字架の先取り・予告・前兆としてイエスはヨハネからバプテスマを受けなくてはいけなかったのだという説明がここに暗示されています。
キリスト者は十字架をすべての人の身代わりの死と信じています。贖罪信仰です。罪のない人がすべての罪人の犠牲となって代わりに死んだという教えです。イエスのバプテスマもすべての人の代わりにしてくれた行為として考えることができます。罪のないイエスはバプテスマを受ける必要がない、神を信頼しきっている神の子には入信の儀式は必要ない、にもかかわらずわたしたちのためにあえてバプテスマを受けてくれたのだという説明になります。
キリスト教会でもバプテスマを入信の儀式として採用しました。その実践を続けるキリスト者から見れば、キリストが行ったバプテスマは模範となります。特に十字架と似ているバプテスマを経て、新しく生まれ変わろうとする人は、自分の十字架を担ってやりがいのある仕事をしよう、少しでも愛と正義を行おうと考えるからです。マルコ・マタイの教会など古代のキリスト教会は、自分たちの信仰実践に役立つように、イエスのバプテスマという出来事を解釈し直して、福音書に書き留めていったのです。
16-17節もそのように考えたら、この一見神話的な表現も理解しやすくなるでしょう。ここには三位一体の神を信じている人たちの、信仰内容が投影されています。バプテスマという出来事に、神の子イエスの他に、親である神、さらに神の霊をあえて登場させているからです。ここにはバプテスマという入信の儀式がどのような生まれ変わりを信者にもたらすかの説明があります。それは平等な交わりへの招きです。
マタイ28:19をお開きください(60頁)。「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」とあります。この「によって」は、ギリシャ語エイスという前置詞の訳です。一般には「~へと」(into)という意味です。三位一体の神へと信者はバプテスマを受けます。それは三者の平等な交わりを模倣して、教会をかたちづくり、人生をかたちづくりなさいという意味です。
イエスのバプテスマで起こった出来事はキリスト教会のバプテスマで起こるという信仰が、今日の箇所の根底にあるのです。
わたしたちの生活にとって今日の聖書箇所はどのような意味があるのでしょうか。わたしは「通過儀礼」というものが持つ力は偉大だと思います。言い換えれば節目節目を大切にする行事ごとです。緊張してみんなの前で立つ場面を設けることで人は成長します。
バプテスト教会ではバプテスマを受ける前に会衆の前で自分で書いた信仰告白という文章を読みます。そして全会衆の前で承認を受けます。そうでなくては入会できません。この通過儀礼には節目としての力があります。全身浸礼は十字架と復活を象徴して行うものです。いったん死んでキリストとともによみがえらされることをよく象徴していると思います。釘付けされるよりは痛くないわけです。
自ら上がると三位一体の平等な交わりづくりという新しい生き方が始まります。この交わりにいのちがあり、一瞬一瞬に永遠のかがやきがあります。永遠のいのちがあるという言い方もします。