マナクラブ お話 マタイ5:21-26
今日の話は山上の説教という塊の中の「否定命題」と呼ばれるシリーズです。否定命題というのは、旧約聖書にある律法を否定しながら乗り越える、そんな内容を持つ言葉のことです。まず律法を引用し、その直後に「しかし、わたしは言う」と続けるところが、イエスらしいところです。イエスという人物は旧約聖書の解釈者です。その解釈の新しさに人気があるのです。だから否定命題シリーズはイエスの真正の言葉とみなされます。「わたしが・・・」と主語を明確にすることがわたしたちの模範です。原文では主語が強調されています。少数意見であっても堂々と語ることは良いことです。
「あなたは殺してはならない」は、有名な十戒と呼ばれる「十の言葉」の六つ目にあたる命令です。十戒の特徴は罰則を置かない、言いっぱなしの命令であるというところにあります。だからこれを法律と呼んでいいのか分かりませんが、現在の旧約聖書の中では、長大な法文の冒頭に置かれています(出エジプト記20:13)。
これに対して「人を殺した者は裁きを受ける」は、一般的な法律の体裁です。「もし・・・ならば」(要件)と「・・・となる」(効果)が、法律の基本的つくりだからです。この部分は民数記35:30の自由な引用です。この組み合わせは、その当時の常識的な解釈です。今でもこの解釈は妥当するでしょう。
この殺人罪についての規定にイエスは噛みつきます。そして自らの解釈を述べます。たとえば、イエスから見ると不特定の「人」は、特定の「わたしの兄弟/同胞/隣人」なのです。この言い換えは急進的な解釈です。その上で、「兄弟」に(内心)腹を立てる者は裁判にかけられるべきだ、「ばか」と言う者は、最高法院(最高裁判所)に引き渡されるべきだ、「愚か者」と言う者は地獄に落ちるのだと、激しく断罪しています。
ばか、愚か者という誹謗中傷は、名誉毀損罪の適用がまだありそうです。しかし、内心で腹を立てることまでもが同罪というのは、現代の刑法以上の考え方です。心は自由というのが憲法でも保証されているので、現行の刑法では「殺してやる」と思っても何も罪には問われないのです。
このことは二つのことを示唆します。一つは、イエスの求める倫理が途方もなく高いということです。宗教の社会貢献はこの類の急進的な倫理を求めることにあります。
もう一つは、「態度による暴力」の課題です。ハラスメント論、暴力論は進化し続けています。有形力の行使による暴力(狭義の暴力)だけではなく、言葉による暴力まで広く認められてきました。さらに第三の類型として、態度による暴力もあります。力関係しだいでは、腕組みだけでも不機嫌な顔を見せるだけでも、支配の道具となり、相手を畏怖させるに十分な暴力足り得るということです。モラル・ハラスメントなどとも呼ばれます。イエスが言う「腹を立てる者」は、態度による暴力を行っている人をも指しうるでしょう。
供え物を祭壇に捧げるという行為は、当時の礼拝行為です。礼拝を「神を愛する行為」とも言い換えることがあります。イエスの主張は、「隣人愛を全うできていないならば、神を愛するなんぞということはできない」ということです。隣の席の人を心では軽蔑していたり、憎んでいたりしながら、「共に神を愛しています」と言うことは偽善です。偽善をしないという倫理観は、より良く生きるという積極的な動機から来るものです。
それに比べて、「最後の訴えられる前に和解しないと、投獄され、保釈金を支払うまで出られなくなるから、早く和解しなさい」という言い方は消極的に読めます。処世術の一種だからです。この類のしたたかな知恵も聖書の一部です。