11月20日の祈り会では、創世記27章18-29節を学びました。
リベカの発言にもあるように(7節)、イサクからの祝福の祈りは「主の前の行為」です。単にお祝いを祈るだけではなく、宗教的な誓約という意味合いがあります。イサクが錯誤を起こしてヤコブを祝福することは、ヤコブの嘘から出た真ではありますが、実際「主がわたしの前で起こした(出来事)」(20節私訳)なのです。それだから人違いを犯していても、その契約は有効となります。
主の前の誓約は、しばしば食事を伴うものでした。父親のイサクも、ペリシテ人の王アビメレクらと誓約を交わすために祝宴を設けました(26:26-33)。また、この後の歴史においても、似たような事例としてヤコブが伯父ラバンと契約の食事を共にします(31:43以下)。さらには、モーセとイスラエルの長老たちが神の前で契約の食事を共にします(出24:11)。
イサクがご馳走を食べぶどう酒を飲んだ後に、ヤコブを祝福していることを考えると、飲食の交わりは契約のための要件となっています。それほどに共に食べるということは重要だということでしょう。「過越祭」がユダヤ人にとって最重要のお祭りであり、食事を伴う儀式を中心にしていることは、その裏付けとなります(出12:1-28)。
この観念・慣習・伝統をイエスも初代教会も引き継いでいます。イエスの神の国運動は、別名「食卓運動」です。宗教的に汚れているという意味で「罪人」とレッテル張りをされていた人々と共に、神の前の食事を行うことに、イエスの食卓の新しさがあります。この食卓のあり方が、新しい契約の内容を象徴しています。真っ先に祝福されるべきひとびとは、世界から締め出されているひとびとであり、すべての人を救う「新しい契約」は、まずもってその人たちのためのものであるということです。
初代教会はイエスの食卓運動を継承し、毎週の礼拝を「パン裂き」と呼んでいました(使2:46・20:7など)。これが後にかなり高度に儀式化され、礼拝の一部としての「主の晩餐式」に発展していくのです。カトリックなどにおいては現在も毎週の礼拝の必須要素です。
主の晩餐式のあり方をめぐっては、旧約聖書の「神の前での共食と契約」という観念までさかのぼって考える必要があります。 JK