11/4今週の一言

11月4日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章14-17節を学びました。この物語は、マルコ福音書1章29-34節を下敷きにしたものです。それをマタイなりに編集しています。なお、ルカ福音書4章38-41節にも同じ物語のルカ編集版が掲載されています。

三つの福音書が共通して保存する物語の骨格部分は、イエスの興した「神の国運動」の姿を映し出しています。さまざまな「癒し」を受けた者たちが、イエスの食卓に加わっていくことがその本質です。この運動の担い手に二種類の弟子たちがいます。イエスと共に旅をする放浪者たちと、一行の定宿を提供する支援者たちです。ペトロら直弟子たちは前者に加わり、ペトロの姑は後者だったのでしょう(他にもエリコのザアカイや、ベタニヤのマルタたちも後者)。彼女の家は、カファルナウムにおける最初の教会になっていったことでしょう。放浪の伝統もパウロのような巡回伝道をする者たちに受け継がれます。この物語は教会の原風景を伝えています。

全般的にマタイの編集特徴(マタイの強調点)は、「マルコを圧縮すること」にあります。マタイは登場人物を減らし(マルコ1章29節、アンデレ・ヤコブ・ヨハネの省略)、ペトロに焦点を合わせます。ペトロを重視する姿勢は他の箇所にも見られます(16章18-19節)。また、「人々」「一同」を省き(マルコ1章30-31節)、ペトロの姑とイエスの一対一の関係を重んじます。

文脈の操作も大きな編集特徴です。8章1-4節に「触れることによる癒し物語」、同5-13節に「言葉による癒し物語」を置き、今回の箇所において「触れることによる癒し(14-15節)および言葉による癒し物語(16節)」が置かれています。これにより、今回の物語が三つの癒し物語をまとめあげています。

そして締めくくりとして旧約聖書イザヤ書53章4節が引用されます(17節)。マルコに無い要素です。実際マタイは最も旧約引用が多い福音書です。イザヤ書53章に示される「苦難の僕」が、十字架で苦難を受けたイエス・キリストであるという贖罪信仰は、マタイも共有していたのでしょう。その一方で、この文脈で引用することは、さらなる意味の広がりを与えます。イエスの十字架が抽象的な意味の全世界分の罪の身代わりというだけではなく、イエスの癒し行為が具体的な病気の身代わりだと言っているからです。カトリック作家の遠藤周作が理解するように、イエスの癒しはイエス自身が病気に罹ることによってなされることが示唆されています。マタイは病弱なイエス像を提示します。

「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12章9節)。 JK